存在。

ご無事で。もし、これが永遠の別れなら、永遠に、ご無事で。

存在。

ご無事で。もし、これが永遠の別れなら、永遠に、ご無事で。

最近の記事

幸福な日々。

こんなに晴れた、涼しい夜の家族の祝うべき日に僕は一体何故、こんなにも寂しむべき疎外感に似たものを覚えているのだろう。 家族の話題についていけない僕はその場から離れた。 良好なコミュニケーションに対する僕という不純物は取り除かれるべきだからだ。 だが幸せそうに笑う家族の中で僕は彼の目の翳りを見てしまった。 彼は僕の目を見てはっきりと深々と溜め息をついた。 少し前に彼は酒の席で僕に「あなたがこのままだったら(僕が結婚しなければ)あなたが老いて、もし障害者になったら介護をする

    • 独白。

      今夜は酒が美味しい夜だ。 少しだけ話をしよう。 酷く気分が良いんだ。 僕の人生は決して明るいものではない。 きっと今までもこれからも。 でも僕は日曜日の朝の雨が好きだ。 雨が降っていたとしてもそれは心持ちと、要は楽しみ方の問題だ。 この瞬間、この幸福というものが、それを感じさせてくれる相手の存在が、今はその全てが愛おしい。 愛というやつはきっと ものすごい速度で、それこそ光よりも圧倒的に早く動いているので 観測することはとても難しい。 たぶん愛そのものの

      • 本当に責めるべきは?

        物事に対して本当に責めるべきことって、たぶんある。 もちろん裁かれるべき存在は誰か?というのは裁判官の仕事なので僕はそこを語らない。 法律の話ではなく、どうか一哲学かぶれの世迷言としてこの話を聞いてくれたら嬉しい。 「Bさんが殺害されました。容疑者のA氏はBさんの恋人関係で…………」 取り調べ中の加害者Aくん「誰でもよかった」 うむ、人命が失われた。 悲しいことだ。 この場合原因はなんだろう? 誰を責めるべきなのだろう? 人を殺すまで狂える相手に対して最高の

        • 善良であるということ。

          「大衆の持つ正しさとは人類史始まって以来、とても不健康に生きていた人間たちの死体の山である。」 今あなたが手に持っている"それ"は もしかしたら誰かの墓標かもしれない。 性善説と性悪説の話は一旦置いておこう。 あれは善悪の話というよりも「勉強は大事だよね、君たち勉強しないと悪になるぞ。」という学習の重要性を説いたものなので。 さて、多くの人は誤解している。 皆決まった口調でこう言うのだ。 「これが正しさです!」 「これが善意です!」 「善良とはつまりこういう

        幸福な日々。

          笑いについて。

          今日家で人と話していて思ったことがある。 それも血の繋がった人間とだ。 「どうしてこの人たちはいつも僕を馬鹿にして笑いを取るのだろう?」 いやはや、僕ほど聡明な人間がこの疑問を抱くまでにまでに30年もかかってしまった。 恥ずべきことだ。 当たり前を疑わなさすぎたのだ。 まさに哲学者失格! これから歴代全ての哲学者に謝りながら生きていこう。 今日この瞬間から唯一の自称から何もかもを一切剥奪されてしまうのだ! 最近ようやく気が付いたのだけれど 僕はどのコミュニ

          笑いについて。

          文化について。

          皆さんはご存知だろうか? 女子トイレの端っこにある小さい箱の事を。 あれは「サニタリー・ボックス」と呼ばれているものらしい。 僕の愛する友人が最近教えてくれた。 さて皆さん、そのサニタリー・ボックスの中身をふんだんに使った「豚の生姜焼き弁当〜サニタリーふりかけトッピング付き〜」をご存知だろうか? 遡ること14年前、僕が16歳だった頃だ。 驚くことなかれ 僕にも子供だった時期はあったのだ。 当時僕は通っていた高校の近くの もちろん店舗の名誉の為に名前は伏せるが

          文化について。

          愛について。

          しまった、僕としたことがここまで好き勝手に文章を書ける場で「愛」について書かなかったというのはとんだ失念だ。 少しだけ話をしよう。 まえがき 【僕はこの文書をたった2人の人間に対して書きます。 どうかあなた方がどうしようもなく孤独で、どうしようもなく不安になった時にでも思い出してみてください】 2016.01.05 『君の愛はそうやって 大きな飛行船のやうに ただ、ひさひさと 僕の頭上に浮いている』 そんな内容の絵を描いた人間を僕は1人だけ知っています。 彼の言う通

          愛について。

          意味について。

          意味のないことは世界に溢れている。 5つだけ羅列していこう。 文章としての姿を保てないだろうけれど、少しの間話をしよう。 1.「自己と他者を比べること」 他者を羨むことも蔑むことも実は意味がない。 お金があって、容姿が優れていて、親しい友人がいて、パートナーや子供ひいては家族がいて、趣味があって、楽しそうに笑っていて、だなんて他者はよく見えることがある。 隣の芝は青く見えるというやつだ。 でもこれは意味がない。 手に入れたものは全て風前の灯のようなものだ。

          意味について。

          善について。

          僕にとって善とは 「他者を侵害しないこと」だ。 僕はこの歳になってようやくその結論に辿り着いた。 しかし以前は真逆だった。 人と関わって、愛して それこそが善だと思っていた。 いや、そう思いたかったのだろう。 なんという思い上がりだろう。 自分が人を愛していいという、大きいが極個人的で極小規模な誤解だ。 その誤解の結果僕は他者を好きなだけ踏み躙ってしまった。 大勢の優しい人たちの顔を曇らせてしまった。 僕にそんなことをしていい権利なんてものはない。 愛

          善について。

          後悔について。

          「こういうことを後悔している」という話を人からよく聞く。 それは人生におけるふとした瞬間だったり、とても大切な瞬間だったりするわけだ。 どうしてあの時振り返らなかったのだろう? どうしてあの時話を聞いてやれなかったのだろう? どうしてあの時こんな酷いことをしてしまったのだろう? 後悔をするということは 記憶を辿るということだろう。 それは心とかいう深い水溜りに潜航することだ。 深く潜るために鉛の重りを身体中の至る所に釘で打ち付けて 大きな大きな酸素ボンベを背

          後悔について。

          調和について。

          僕の周囲で起きている不和は全て僕の所為だと思う。 人間関係を形成し始めた幼少期から学生時代、そして現在に至るまで僕はずっとそう思っている。 家庭だったり、友人関係だったり、学校だったり職場だったり。 その全てで僕は不和の災禍になってきた。 最初は僕も被害者面をしてそれが排他された側の免罪符だと言わんばかりに喚いていたが どうやら本当の被害者は僕ではなくあの人らだったらしい。 排他には必ず理由がある。 そしてその理由は排他される側が自ら生み出すものだろう。 あの

          調和について。

          死について。

          死ぬということは一体どういうことだろう? 僕は以前これを布団の上でずっと考えていた。 「死にたかった」と言ってしまえば多少は格好が良く見えたのかも知れないけれど、僕はただ疑問に思っただけだったのだろう。 生きていてよかった!があれば、死んでよかった!も存在できる。 ただし、死んでしまった場合の生への不可逆性に目を瞑ればの話だが。 「私、死にたいんです…」という相談を僕はよく受ける。 いや、言い方を変えよう。 受けてしまう。 まるで僕に「そんなことないよ!君は素晴らしい人間

          死について。

          憎悪について。

          僕が今までの人生で自分の心の容量を一番消費していたものは「憎悪」だろうと思う。 ヘラヘラ笑ってる人間が憎くて憎くて仕方がなかった。 でも違った。 彼らは笑いたくて笑っているわけではなかったのだ。 自分より下の人間を作り出して排他して笑うことで心を保っていたのだ。 僕は想像し得る有りと有らゆる排他を受けて生きてきた。 複数からの暴力行為 「失敗作」「出来損ない」、それに類する暴言 精神的苦痛の付与 性的な虐げ 個人の欲による侵害行為 陰口 無視 複数回における自転車や

          憎悪について。

          幸福について。

          「幸せってなんだろう?」というちょっと心を病んだ人たちの発言をよく見かける。 それに対して「人それぞれだよ!」と返事をしている人もよく見かける。 言い方は悪いがはっきり言ってその返答ができる人間は馬鹿だ。 人それぞれだからこそ思考の余地があるのではないだろうか? だから答えが出ずに頭を抱えているのではないだろうか? 僕の幸福の定義は「他者からの受容」と「他者への許容」だと思う。 これはあくまで僕の中の、極めて狭い価値観の中での答えなのだけれど。 僕がそれを幸福だ

          幸福について。

          狂気について。

          「常軌を逸する」という行為は正しさを理解できていないとできない芸当だ。 だから狂気なんてものはこの世に存在しないと思う。 あなた方の周りにもいるだろう。 「この人は気が狂っている」 と思う人が。 実はそんなことはない。 それは自分と違う「正しさ」を持った人間に対する排他的思想そのものであると思う。 あなたの思う狂人は一番正しさを知っていることだってあるのだ。 それからテーブルマナーの実践や飛び降り自殺の時に靴を揃えたりすることと同じように、発狂にもカトラリーが

          狂気について。