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夜逃げを手伝う

東京は冬の空気が少しずつやわらいで春の陽気を感じられるようになってきた。日中あたたかな日差しが注ぎ、少し風は強いけど季節が確かに移ろいつつあるのを全身に感じることができる。2024年の3月である。

我が家の近所でも袴を身に着けた女子大生なんかが時折見られるようになってきた。どこかへ急ぐ姿は誇らしそうでまた少し寂しげでもある。一方で住宅街では引っ越し屋のトラックが道脇につけ、大きな男の人が荷を降ろして運んでいる姿も見ることができる。なにか別れと出会いがそこかしこで訪れているような気持ちがする。すなわち新陳代謝の季節である。

長い冬が終わり季節が春に変わるこの独特な空気感にあてられてなんだか、ふだん思い出すことのないようなことまで思い出してしまう。そう、あれは2015年の春だった。おれは20歳で、近所の飲食店でのアルバイトに精を出していた時分であった。

おれは大学に入ってすぐのころ家の近所にできた飲食店で働いていて、カネコさんとはそこで出会った。カネコさんは当時30代前半くらいだっただろうか。一回りほど年上の女性で、たいへん仕事ができる人で、店長からの信頼も厚かった。また面倒見もよく、当時のおれと同じように近所に住む大学生が中心の店舗スタッフの中で、一種アネゴ的なポジションを得ていた彼女は世間知らずの二十歳そこそこの大学生のことを、故郷の秋田に残してきた弟のようであるとたいそう可愛がってくれた。

アルバイトが終わるとカネコさんはおれたちを連れてよく食事をごちそうしてくれた。カネコさんは小食で、自分はたいして食べないくせに、おれたちがお腹いっぱい食べられるようにと、おかわりが自由なやよい軒とか、たまにお給料が入った日には焼肉屋などに連れて行ってくれた。そして冴えない大学生の、誰に惚れたとか誰に振られたとか、そんな冴えない話を笑って聞いてくれたり、時には喝を入れてもらったりもしたものだった。仕事ができるうえに情にも厚い。おれたちはそんなカネコさんを慕って仕事に取り組んでいた。

カネコさんは当時彼氏と同棲をしていた。時折店に顔を出しては、いつも彼女がお世話になっていますと随分年下のおれたちにもとてもよくしてくれる人だった。おれたちは、カネコさんはきっとこの人と結婚するんだろうな、と思っていた。

ある日のことである。その日はカネコさんと、おれと、それから同じ大学に通うシマダくんの三人で仕事をこなしていた。閉店の間際、カネコさんはおれたちに話があると言った。彼氏と別れることにしたのだと言う。聞くと、あの優しかった彼氏は、実は定職に就かずカネコさんの稼ぎを頼りにしては、この頃金をせびって一人飲みに出てしまうのだという。別れ話を切り出しても話はもつれ、なあなあのうちにやり過ごされてしまう。いい加減にせねばとカネコさんは新たに部屋を契約して、一人ひっそりと彼氏と住む部屋を出ていくことにしたのだと言う。そしてこの日、彼氏に金を渡して飲みに出した。彼氏は一度家を出ると朝になるまで帰ってこない。つまり、今日はまたとないチャンスなのだということである。ついては、仕事が終わってから夜が明けるまでの間に部屋の荷物を新居に運び入れるのを手伝ってほしい、とカネコさんはおれたちに頭を下げた。すなわち夜逃げである。

カネコさんがそうまでしなくては彼氏と離れられない身の上はおれたちにはよくわからなかった。でもおれたちはカネコさんを慕っていた。そのカネコさんが困っている…とするならば、カネコさんの頼みを聞き入れないわけにはいかないだろう。おれたちは二つ返事でカネコさんの夜逃げに加担することにした。

深夜12時を回って店を閉める。我々は二手に分かれ、シマダくんは駅前の24時間営業のレンタカー屋に行き車を手配する。おれとカネコさんはアパートに先回りして、荷物を整理する。洋服とか、化粧品とか、こまごました家具なんかをダンボールに詰めて積み上げていく。やがてシマダくんも車を乗りつけてやってくる。カネコさんはこの場所で長く暮らしていたと言うが、要不要の選定の末に持ち出すことにしたカネコさんの荷物は存外に少なく、4~5箱のダンボールに収まりきってしまった。

それでも、選定に思いのほか時間がかかってしまい時刻は4時を回っていた。急いで荷物を運び出していく。カネコさんの荷物はトランクに簡単に収まってしまった。部屋は荷作りをする前とさして変わらない様子で、カネコさんの生活がいかに彼氏によって浸食されていたかが骨身に分かるほどだった。一通り荷積みが終わって部屋の最終確認を三人でしていると、なんだかおれはだんだん怒りが込み上げてきた。

なぜカネコさんはこんな目に遭わなくてはならないのだろう、面倒見のよいカネコさんのことだから、きっと彼氏にも心の限り尽くしていたことだろうが、そこに付け込んで勝手気ままな振る舞いをするに至った彼氏の得体の知れない何か嫌な感じを、彼氏の私物に浸食されたふたりの居住空間を見るにつけ感じさせられた。いよいよ最後というとき、なんだかおれは彼に一矢報いたい気持ちになった。それで、玄関に取り付けられていた壁掛けの鏡をひっぺがしてトランクに投げ込み、そうして部屋のドアに鍵をかけた。カネコさんは何も言わなかった。

出発の直前、少し一人にしてほしいとカネコさんが言ったので、おれとシマダくんが先に車に乗り込んで、エンジンをかけて待った。カネコさんはアパートをしばらく一人で眺めていた。何を思っていたのかは知らない。やがてカネコさんは車に乗り込み、ごめんね、とだけ言って、おれたちはアパートを後にした。果たしてカネコさんの夜逃げは完遂された。

新居に荷物を運び終わるころには外が明るくなりはじめていて、空には星がうすく光っていた。新宿や渋谷の街ではもうこの時間に星は見えないだろう。明け方でも星が見える街にカネコさんは引っ越しをした。

三人で車を返す。駅前を歩いていると、冬の白い息が出なくなっていることに気が付いた。もうすぐ春になるんですねえ、とシマダくんが言った。カネコさんはそうだね、と言って、それからおれとシマダくんにラーメンをおごってくれた。

あれから何年が経つだろうか。冬から春に変わるいまは、別れと出会いの季節である。おれたちが働いていた飲食店は、おれが大学を卒業して間もない春、新興勢力に押されて廃業に追い込まれてしまった。カネコさんやシマダくんとも、もうずいぶん長いこと会っていない。いまも東京のどこかで暮らしているんだろうか。東京という街は、無数の別れと出会いによって新陳代謝を繰り返しながら形を変える一方で、それらに纏わる思い出は地層のように積み重なって消えない。そんな感じです。


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