著:麻枝准『猫狩り族の長』の感想。

ほのかにネタバレあり、ネタバレ部分は【】をつけておくので避けたい方は読み飛ばしてください。


『猫狩り族の長』を読んだ。
簡潔にいえば麻枝准らしい物語だった。その上で、嬉しいような苦しいような複雑な読後感が印象的だった。

泣けるノベルゲームのシナリオライターとしてまず名前が上がる麻枝准の処女小説となる本作であるが、その構成はノベルゲームのシナリオ構成にやはり近いようなものがあると感じた。
麻枝准の泣けるノベルゲームといえば感動のラストシーンなわけだが、その感動とは私はそれまでゲーム内で積み上げてきたヒロインやキャラクターとの時間とそのギャップから生ずるものだと考えている。30〜50時間にわたるプレイ時間が、ヒロインと過ごした時間が、最後の大きな感動に繋がると思っている。

本作も 【主人公とヒロインの6日にわたる物語の中で、その中でヒロインの苦悩する姿が描かれるわけだが、】私が1番麻枝節を感じたのはなんといっても日常の描写である。衣・食・住を含め、【主人公の天に向かってツッコミを入れる00年代っぽい描写(あるいは二次元キャラクター的な描写とも言えるか)やヒロインの自論を捲し立てる話し方など、】日常の描写は実にコミカルであるいはキャラクターとして個性的に魅力的に仕上がっていると感じた。
そういった登場人物の人となりを読者にも実感できるような描き方が、麻枝准らしいなと感じた。


ラストシーンの解釈は賛否あると思うが、【いずれにしても、私はヒロインが猫狩り族の長として生きて、約束を信じていたことが嬉しかった。ヒロインが主人公と出会い、明日はどこへ連れてってくれるのか、そう尋ねてくれるだけで嬉しかった。】人によってはバッドエンド的な後味の悪い作品と感じるかもしれないが、私としてはこれでいいと思わせてくれるエンディングだった。あるいはボーイ・ミーツ・ガール(この作品ではガール・ミーツ・ガールだが)的な作品で、最後には来世(や未来)で再開するような、流行り物の作品でいえば『君の名は。』や麻枝准作品でいえば『Angel Beats!』のようなエンディングは、メジャー(というかややチープ)でつまらないという人もいるかもしれないが、その王道こそが私は麻枝准らしさだと思う。むしろ王道ではない邪道なエンディングで誰が感動できるだろうか、この「王道さ」が「泣ける」ことに拘った麻枝准らしさに他ならないと思う。
同時に、家族や友を失うことを描くのならば、「泣ける」なんて当たり前だろうという考えももっともである。確かに家族や友は誰にとっても大切なものだし、それを失う様子を(あるいは手に入れる様子を)描けば、ある程度琴線に触れる物語が描けるのは必然であるとも言えよう。その上で、麻枝准作品の特徴というのはやはり、上記の日常を丹念に描いたことによる読者のキャラクターへの親近感を、ラストシーンへ向けて崩壊させていくというカタルシスだろう。そういった麻枝准のエッセンスが詰まった感動が、私たちファンを虜にしていくのではないかと感じた。

本作にはいかにも麻枝准を投影するかのようなヒロインが出てくるわけだが、このキャラクターが発するクリエイター観が、麻枝准と同じものだとするならば、やはりというか、私はその辛さに絶望するのである。
インターネットという広大な宇宙の片隅で小さすぎて見えないほどの創作活動を行なっている私と、世間的に認められ多くのファンを有するクリエイターである麻枝准、その辛さを分かる分かると同感するのも本当に烏滸がましいが、でもヒロインの語る創作の辛さは共感できるものばかりだった。多くの人に認められようが、私のようにいてもいなくても分からないような存在だろうが、抱える辛さは(本当に烏滸がましいが)似たようなもので、いつか多くの人に認められてこの辛さから解放されるんだという希望は(薄々そうじゃないとは思っていたが)やはり、変わらないものだった。
また、ヒロインの語る死生観は、おおっぴらにはいえないし実に厨二臭く恥ずかしいが、自分と共通している部分があったと言える。物語のヒロインに感化されて「死にたい…」などというのも実にガキっぽいが、でも共感できる部分は少なからずあった。
だがこういった経験は誰にでもあると思っていて、他人が面白いと思うものを同じように思えない自分、世間的に良いとされるものに肯定感を示せない自分、世間や人に迎合できない自分、そういった自分にとっての普通が世間にとってズレているという現実に、傷ついたり苦しんだりすることは濃淡はあれ誰にでもあることだと思う。ただそれが多くありすぎたのが本作のヒロイン、あるいは麻枝准、そして自分の中の一部分なのだろう。
本作は私としてはハッピーエンドだと思う。なぜならこの苦悩したヒロインは最後主人公と出会い、約束を果たし、生き抜いた。それができたのは言わずもがな主人公の存在であるためだが、それは同時に現実の私たち(あるいは麻枝准自身)を絶望へと突き落とすことに他ならないと思う。

物語の中で主人公たちがイルカの世界を外界から観測したように、私たちはこの物語の外界の存在でそれを観測している人間である。物語中では、創作や生きることの苦しみにもがいたヒロインは主人公によって最終的に満たされるわけだが、それを観測する現実の私たちにそんな存在はいるのだろうか?答えは自明である。そう考えると、本作は麻枝准が「こう救われたい」という願望そのものな気さえしてくる。それはすなわち、麻枝准は今でもこの辛い世界の中に生きているし、また、それに共感してしまった私たちも、これからもこの辛い世界で生きていかねばならないということを示唆していると感じた。
そして、何より麻枝准を投影したヒロインを主人公は論破できなかった。これは麻枝准が自身の心に、生き方に自分なりの答えを見つけることはできていないということなのだろう。
よって、私が感じた複雑な読後感というのは「この物語が、キャラクターが救われて良かった」という嬉しい気持ちと「同時にこの物語のヒロインの同位体である現実の(麻枝准を含む)私たちは何一つ救われていない」という辛い気持ちが入り混じった、そういうものであったと感じる。

最後に、個人的な対比として『シン・エヴァンゲリオン劇場版』との比較をしておく。
シンエヴァはなんといっても「エヴァからの卒業」がテーマであり、主人公のシンジ、そしてその投影元と言っていい庵野秀明は大人になり、人から自分は求めてもらえる存在だと自分を信じることができた。自分を見つけて自分らしく生きるようになった。一方で、麻枝准は今でも、自分の感性に苦しみ、何か人に求められることをし続けないと誰からも相手にしてもらえない(と思っている)孤独な生き方をしているように見える。
どちらが共感できるかは人それぞれで、社会でそれなりに自分らしく生きている人からすればエヴァは前向きなメッセージで終わる大団円であるし、本作は過去の通り過ぎたうじうじした自分を見ているようでつまらないだろう。反対に、今でも心に孤独さを飼っている人からすればエヴァは1人でに大人になったようで置いてけぼりにされた物語であるし、本作は、今でも孤独な心やその弱さを認め寄り添ってくれる作品に他ならない。
私はどちらかといえば後者だが、麻枝准のノベルゲームを楽しんでいた層もいよいよ20〜30代だろう。社会の中で自分を見つけ、寄り添う相手を見つけ、孤独は過去のものとなった人たちにとって、この小説はどのように映るのだろうか。
私としてはそういった「大人になってしまった」層に受けなくてもいい、今でも心に孤独と弱さを飼った「(否応にも)子供のまま(でしかいられない)」の層の受け皿であってほしいと願うばかりだ。側から見ればそれは、key信者だの麻枝信者だのと見えるかもしれないが、本作のような物語があるからこそ生きていける者たちがいることも忘れないでほしい。
そしてそのような物語を紡ぎ続け、いつか救われる日を夢見る麻枝准自身にも、それが訪れてほしいものだ。

麻枝准が『現代ビジネス』に寄稿した記事を読んでの追記。
やはり、本作は一種の自伝というか、自身の周りで巻き起こる現実に対しての負のエネルギーが高まった結果による、発散に近い作品だということがわかった。そして同時に麻枝准自身に本作の主人公のような存在はおらず、今もこの辛い現実に戦っているのだということもわかった。
悲しきかな、麻枝准の理想を描いたであろう本作でさえ、作中で主人公はヒロイン(=麻枝准)を論破することは叶わなかった。それは麻枝准自身が生き方の答えを見つけられていないことの証左に他ならないだろう。
麻枝准自身も、自伝的な内容で今までのノベルゲームとは異なる点について、刺さる人に刺されば良いと言っていた。私としても上記の通り、麻枝准の物語は確実に誰かの心に寄り添い、救っている作品だと思うので、興味のある方は一読しても良いと思う。

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