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麹町中元校長の「非常識な教え」を読んで

先日、知的生産活動が面白くて止まらず、ずっと積読していたこの本を一気読みしました。

何となく知人経由で工藤校長の噂は知っていましたし、何となくの思想も知っているつもりでしたが、思っていた以上にシンプルで学びがあったので、
1回目の読了後の要約と感想を記載したいと思います。

工藤校長の掲げる教育の最上位概念は何か?

これが何より非常にシンプルで、一貫していました。
工藤校長の掲げる教育の最上位概念は、
「自律したこどもを育てる」
つまり、「人のせいにしないこどもを育てる」です。

工藤校長の施策は、一見派手で注目されがちですが、全てが「こどもの自律」に終始していることには、実はほんの少しフォーカスが弱いように感じています。

固定担任の制度をなくしたという施策も、
「まぁ、1人固定だとどうしても合う合わないあるしね」という声があったように思いますが、
真の目的は、「この担任だったから」という環境や人のせいにして当事者意識を失うこども、親、ひいては学校関係者をなくすためです。

定期テストの廃止、宿題廃止も、
「最近のこどもは学ぶことが多く、忙しいから負担を適切なものに軽減しよう」
ということではなく、主体性のない"やらされ"のままの、身につかない学習は徹底的に削ろうというものです。
AI搭載のタブレット導入ももちろん、ICT教育で最先端をいってますよという表面的なアピールではもちろんなく笑、
画一教育では難しかった個別最適化を行うことで、無駄を削り、より主体的な学びにつなげるためです。

終始一貫して、「自律したこどもを育てる」ための環境整備をされています。

真の目的は何か?現状の手段やアプローチは果たして真の目的に向かっているのか?

教育の真の目的はなにか。
この本を読んでいて、より共感が強かったのが、まさにそこです。
麹町中学校では、こどもの自律を促すために、「良いとされる方法を教え込む」ではなく、「自己のスタイルを確立するための選択をさせる」ことを徹底しているそうです。

意思決定の練習とも言えるし、自分に合った方法の探究とも言えるし、
とにかく、自ら考え選択できるよう設計されているのです。

私は中学の時の先生が、今思い出しても人間として大嫌いなのですが、
それは、「中学生は必ず悪意を持って大人に反抗してくる」という勝手な思い込みで、きつく行動や発言の選択を狭められたからです。

私の1年生の時の担任の口癖は「調子乗ってんのか?」でしたし、
3年の時の担任は、高圧的な女性で、指示棒を常に持っていて、黒板を指すだけでなく、それで生徒の体を直に触れる形で指してきていました。
また校則も異様に厳しく、髪型も、染めるのはもちろん論外として、
女子は肩より上の短髪か、後ろに一つ括りか、横に二つ括りのみで、横に一つ括りをしていくと注意されるという。笑
靴も靴下も白でないとダメで、ワンポイントも禁止。当時、近くのショッピングモールでコンバースの白が安売りされたのですが、コンバースの白は、厳密には白ではなく、クリーム色で…
セールの翌日、コンバースを履いてきた生徒(大量)がずらっと職員室の前に並び、全員修正ペンで、コンバースのマークとクリーム色の生地を塗りつぶすという異様な光景が広がりました。笑

本当に何故そこまで強制されるのか、それがいけないことなのか、当時はわかりませんでしたが、今になっても全く意味がわかりませんね。
「どうしてだめなんですか?」と聞けば、「なんだ?反抗する気か?」って独裁恐怖政治そのものですし、
「校則で決まってるだろ。嫌ならこの中学に来なければいい。来たんだから守りなさい。」とのこと。
校則で決まってる、は全く理由になっていないし、
雇用契約書でもあるまいし、義務教育の公立中学入学時に校則を提示された覚えもないし、詐欺もいいところです。
そんな、こちらの疑問にも真摯に対応せず、教育機関にも関わらず考えることを悪とし、選択肢を与えず従順であることだけを押し付ける。
当時の先生たちは、一体何をGoalにして私たちに接してたんだろう。
少なくともあと80余年を過ごすだろう子どもたちに自分の足で生きる力を与えようなど一切思っておらず、
ただ今日の授業を平穏に終わらせ、
ただ明日の地域からのクレームを防ぐためだけしか考えてなかったと思います。
本当に、よほど追い詰められてたのかなぁと同情してしまうレベルです。
まぁ、そんなの、圧倒的弱者の生徒たちに言い訳しないでほしいと思ってしまいますが。

…あまりに中学が嫌いすぎて、愚痴が長くなりすぎました。笑
そんなわけで、工藤校長が
「教え込む」ではなく「選択の余地を与える」「自ら考えさせる」という教育の真の目的を大事にしていること、
生徒に与える制度や言動を、「真の目的に沿っているのか?」を軸に常に見直されていること、
そしてそれを実践されているということ、
普通じゃないな、と思うのです。


心まで変わらなくてもいい。行動を変えよう。

工藤校長の考えは、とてもバランスがとられているなぁと感じます。
子どもたちが自分の人生を自分で歩めるように、(=自律できるように)
個性を認め、その子にあったスタイルを確立するための選択肢を与え、大人の考えを押し付けない。
一方でわがまま放題で人に迷惑をかけたり傷つけたりするのも、互いに生きづらさにつながるので、そのフォローもされています。
でもそのフォローも、バランスがとられているのです。
別に、考えが合わない人を攻撃する必要もないし、かといって、自分を押し殺して仲良くしたりする必要もない。
心まで変えなくていい。ただ、目的に沿った行動をすればいいと伝えていらっしゃいます。
社会に出たら、そうですよね。別に、考えが違うからって攻撃することもないじゃないですか。あ、ふーん違うのね。必要な範囲で折り合いつけましょうか。ってなもんですよ。
別にその人と無理やり遊びに行ったり飲まなくてもいいわけだし。
(ごく一部の幼稚な人は除く)


「友達100人つくろう」とか「みんな仲良く」とか、別に絶対の真理ではない。
それがうまく機能する時もあれば、そうでないこともある。
人間、いくつになっても、人との距離感を適切にすることって難しいと思いますが、
最初から美徳だけを押し付けるのは違う。
お互いに尊重しあえる距離感、バランスのとれた関係を伝える。
それは子どもにとっても、とても安心するのではないかなぁと思います。


この本を読んで

私自身、教育の素人以前に、人間の素人(笑)でもあるので、
子どもたちに幸せになってほしいと思いながらも、未熟なことしかできないわけです。
今、私が正しいと信じていることが、時や場所を変えれば恐ろしく愚かだったと激しく後悔することもあるでしょうし(てかしょっちゅうある)
全然、全てにとって正解で完璧な教育を施せるわけではないのです。
もちろん、それは私だけでなく、今生きている人たち、残る書物たちにも言えることです。
ただその渦中にいながら、
盲目的でなく、今を疑いながら最適化していけるそのしなやかさが私たちには必要なのかなと思います。

公立中学校でさえ、このしなやかさを持てる。
この学びをしっかり日々に活かしたいなと思います。

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