見出し画像

13. 大企業への転職、東京での波瀾万丈。痛みや鬱という名の贈り物を受け入れる日を迎えて。

ドッキリかと疑うほど大きな転機となる、人生最大級の出逢い。

時はすこし遡り、退職を決めた一ヶ月強前。一社目の会社で奮闘し、二人目の彼と共に過ごしている中、人生最大級の記念すべき出逢いのひとつに導かれていた。京大情報学同窓会が開催している、だれでも参加できるオープンな交流イベント『超交流会』 。本イベントを知った前日、すぐに主催者にコンタクトを取り参加させてほしい旨をお伝えすると、「うぇるかめ!!友達誘って、オコシヤ〜ス」と超気さくな返信をいただき、ホッと胸を撫でおろす。わくわくそわそわしながら恐る恐る入った会場で熱気に包まれ、キラキラした目で興奮気味にちょこまかと動き回っていた。This Is What I Want! と言わんばかりに、たのしくてしかたなかった。

画像1

お昼には場の空気に慣れくつろいでいた私は、IT企業の人事部長たちがお届けする『人事部長のから騒ぎ』に勇んで参加。壇上でのやり取りのおもしろさに心の底から惹かれていたのであろう。満面の笑みで超前のめりの姿勢で話に夢中になりながら、名の知れた東京の大きな企業の実態に息を呑んだ。私の様子がよほど印象的であったのか、会の途中、「うちの会社に興味はありますか。」と、ある人が名刺を片手に声をかけてくださった。これが、この方なくして今の私はないと断言できるほど、最も感謝している人との出逢いとなる。そして、この出逢いが後に、私を大いに羽ばたかせてくれる機会となった。

画像3

六本木ヒルズにオフィスを構える急成長中のIT企業にて、人事本部長を担当していた彼は、出逢い以降も、メッセージの中で、会社の魅力を幾度となく丁寧にお伝えくださった。設立から四年でマザーズ上場、一年半後には一部上場。海外13拠点を展開、社員数約2,000人といった規模の会社は、当時の私にとってあまりにも大きくかけ離れた存在のように感じていた。同時に、願ってもない東京という舞台やこれから伸びていく業界で働ける機会に強く惹かれ、この人の元で働きたい!とおもえる人に出逢い、お誘いを受けている状況に感謝があふれていた。私のような突破力のある存在が人事部にいてくれたら変化が見えるかもしれない、と彼が願ってくれているように受け取っていた。

一ヶ月後、面接にお伺いすることになるのであるが、丁寧に段取りしてくださっていた。ヒルズに足を踏み入れるだけでどぎまぎしていた私に対して、彼は終始にこやかに優しく気さくに明晰にお話してくださった。入れ替わりで、直属の上司となる採用部部長が面接してくださる。the 東京人な話し方の人とのはじめての会話ということもあってか、問いかけをいただく度に頭が真っ白になったことだけ記憶している。また、デニムにスニーカーにパーカーでこれほどにおしゃれなのか、これほどにらふな格好がOKなんだ、と感嘆したのを覚えている。二人とのお話が終わった直後、想定外に採用通知書を手渡しでいただき、エレベーターに乗っている間も、最後の最後までドッキリなんじゃないかとおもっていたほどには現実味がなかった。業界平均ではあるものの、給与がこれまでの約1.5倍となり腰が抜けた。エスカレーターを降りながら真っ先に彼氏に電話をするも、彼にとっても想定外の採用であったようで、祝福やよろこびを通り越し、同業の大きな企業で働けることになった彼女の状況に驚きとショックを隠せないようであった。それほどに小さかった私の存在が愛おしくて懐かしい。

画像3

いざ、念願の東京へ。波瀾万丈の舞台でいただいた、巡り合わせという名の贈り物。

東京には、入社の数日前に引越。当時、妹と川端聖護院辺りに二年半ほど住んでいたのだが、彼女にも急遽引越をしてもらうことになったかとおもう。私の事情で大変申し訳無いことをした中で受け止めてくれたことに、改めて感謝をお伝えしたい。また、レストラン然り不動産物件然り、関心のない何かを探すのが苦痛な私を横に、段取り力の高いパートナーがすべてを決めてくれたのは助かったの一言に尽きる。加えて、彼が望んで一緒に引越してくれたのは心強かった。本当にありがとう。

さあ、ここから心の波が大きい日々がはじまりはじまり。約五年半の社会人時代、とりわけ東京での時間を振り返るのは鋭利な痛みを伴う。キーボードを打つ手が明らかにスピードを落とすほどには、憂鬱になり、力が抜け、胸が苦しくなるのを全身で感じる。だが、逃げてばかりでは、自分を慈しんであげることも、適切に省みることもできない。真摯に向き合う時が来たということであろう。つらいことも多かれど、すべてに意味があったのだ。ひとつひとつに感謝しながら、甘んじて受け入れていきたい。

画像5

まず、当時のことを“繊細に”“丁寧に”思い出すためには、これまで携わってきた多くの人の存在を再認識することが必要であり、思いの外負荷が大きい。これまで小中高大時代と描いてきたが、これらの期間はそれぞれの人と比較的長くお付き合いしていたり、複合的に絡み合っているため、すべてを思い出せなくとも断片的に憶えていたのだなあと認識。一方、社会人になってからは、転職の多さと一社辺りの同僚と関わり合う期間が反比例するため、記憶を遡るだけで一苦労なのであった。その上、様々な出逢いに導かれた直近四年半での想い出が色濃いことで、それ以前に巡り逢った存在や出来事は、よほど印象的に残っているか親しかった人との心覚以外は、ほとんどと言っていいほど憶えていないのであった。これほどに心労を伴うものなのなんだね、と既に滅入っているが、眼帯疲労がひどい目をこすりながら Facebook で懸命に共通の友人を辿って細やかに認識している最中である。

ひとりひとりの表情やかけてくださった言葉を思い出す度、あたたかい陽に包まれたような感覚になり、感謝があふれてくる。頭が忘れていることも、身体は記憶しているんだね、また笑顔を交わせられたらいいな、と願いながら。

画像4

親しかった人の共通点、彼らが私に求める役割。

先にご説明しておくと、上京以降、私を気に入って採用してくださったり個人的に親しくなる人はほとんどが、創業者か社長、取締役や経営層、スタートアップ投資家で、社内外で一定の権限や厚い信頼を得ている一回り前後年上の人たちであった。彼らは海外への意識が強く、異なりを受け入れる力が大きい人が多かったようにおもう。一目惚れというと語弊があるが、プライベートで親しくなる人は、出逢った瞬間から仲良くなる人が多かったのではないであろうか。

正直、なぜ彼らが私に関心をもってくれていたのかはわからない。東京にいた期間の私は、快活で勢いがあり、いたる処に顔を出しては一年弱で千枚名刺を集めるほどには多くの人と交わり、大きな好奇心と多少にも業界への理解があり、24歳から28歳と比較的若いにもかかわらず、肩書や年齢が上の人にも物怖じせず敬意を持ちながら対等に話す人として、単純に話しやすかったのかもしれない。彼らの仕事上での悩みや何気ない話を心からうれしそうに興味深そうに耳を傾けていた。私も彼らと童心のように無邪気に遊んだり、美味しいものを食べながら笑顔で微笑み合ったり、一緒に過ごすのが純粋にたのしかった。多くの方々から本当にかわいがっていただいた。なにをしようとも応援していただいていて、彼らの存在そのものに対する感謝があふれてくる。彼らにしてみれば大変に失礼な話で言葉にするのも恐縮だが、下心も多少はあったんじゃないとおもわれるかもしれない。ただそれよりも、彼らは大変に純粋な少年のような人たちで、シンプルに私の存在をおもしろい!よくわからないけどなんか可能性がありそう!と感じてくれて、大きく羽ばたいていくのを期待を込めてたのしみにして見守ってくれていた人たちであったようにおもう。

画像7
画像8
画像6
画像9
画像10
画像11
画像12
画像13
画像14
画像15
画像17
画像16
画像18

彼らの中には、公私問わず仲が良い人もいるが、採用してくれる人が公・職場で求めていたのは総じて、人懐っこさや愛嬌などの社交性や環境適応力、物怖じしない突破力といった、ありのままの私が自然と発揮している特性を生かした役割で、現状に変化という名のあたたかな明るい風を生んでくれる役割や、Conflict Management 的に対立を和らげ輪を紡ぐような役割、人のケアをする役割であった。転職のお誘いを受ける度に経歴書の提出を促されたことはなく、細やかなスキルを確認されたことがなかったのはそういう背景があったからななんだろうなあ、また確認せずとも私と交わった時の直感で、ちょっと教えれば自発的に学んでいくであろうとおもってくれていたのかな、と感じる。彼らの存在や支えに対する感謝や励みが募るね。

画像20

三重苦に導かれる。人間関係の苦、仕事ができない苦、申し訳なさの苦。

大きく分けてみっつの苦があった。ひとつ。最も大きな影響を与えたのだが、いくつかの会社を除き、人間関係にひどく苛まれていた。ふたつ。大まかに言えば、私は仕事ができなかった、とおもっていた。より具体的には、幼少期から問いかけと納得感を大切にしている私は、“なぜ“を最も重んじるがゆえに、会社の存在意義などの大目的や中目的への理解と受容なくして、指示された目の前の仕事を順当に期限内にこなしていくことが容易ではなかった、非常に難しかった。みっつ。仕事の不出来により、ご迷惑をおかけした人への申し訳なさが拭えなかった。そして、お詫びを丁寧にお伝えできず、ずっと心に引っかかっている。この三点は、糸が解けないほどに雁字搦めに絡み合っていて、幾度となく自分自身に苦しみを与え続けていた。が、何年も経過した今、ようやく向き合うことができている。

画像20

「関西弁禁止、笑顔禁止」の言葉で身動きが取れなくなり、次第に心が壊れた。

どのような会社でも該当するが、最初と最後に転職した二社でも、即戦力となる手練の経験者のみが中途採用されていた。前者の会社で属した人事部では人事かコンサルで経験を積んできた三十歳前後の人が多かった。新卒二年目の夏入社で営業経験しかなく、学歴も経歴も大したことがなければ、即戦力でもないにもかかわらず、一般的ではない形での入社であったことでなおさらに、なぜこのような人物が採用されたのかと現場の人は不思議におもったであろう。紙面にはない魅力があるのかもしれないと捉えた現場では、自然と期待値が高くはなり、どれどれ、と一層に短期的な成長を求めたくもなるであろう。このような背景から、私に対して入社前からおもしろくないように感じたり、嫉妬や同属嫌悪、敵意を感じていた人が一定層いたようである。人事管理システムの私の名前の備忘欄に○○さんのお気に入り!と書いてあるのをこっそりと見せてくれた先輩が、「裏ではこんな風に話されてるよ、気をつけるなね」と伝えてくださった。そうなのかあ、、と驚き、恐れ、人に対して疑い深くなった。すこし嫌味ともとれるその行為やその奥にある思いを受け止めたり笑い飛ばしたり慈しめるほどの度量は、当時の私には備えていなかった。

画像23

後者の会社で属した本部では、平均年齢は40代前後と年齢層が高く、外資系やその畑で実績を積んできた人が多かった。また、福利厚生や給与含め、働きやすい環境を整えてくれている大きな器の組織であったため転職者も多かったが、社歴が長い人も多かった。こちらでは、誘ってくださった人が気を利かせてくださって、私は知らず識らずに Senior の階級で入社していた。外資系組織に疎く認識不足ゆえに気がついていなかったのだが、いつだって優しく接してくださっていた先輩が、ある日教えてくれた。「あなたは知らなさそうだからお伝えしとくとね。社内の人事システムで、だれでも階級や役割を閲覧できて、睨みを向けられているから注意しておいた方がいいよ。20代でその階級をいただけるのは非常に珍しくてね。かつ、新卒から長らく勤めているあなたより年上の先輩方でもついていない階級なのよ。」それ以降、社内で瞳に映る人はみな、とりわけ女性が怖い対象に感じるようになっていた。

画像24

前者の職場では、入社初日に創業第二期からお勤めの人から呼び出しを受けた際に、あるご注意をいただいた。「最初に言っておくね。四つ禁止なことがあります。笑顔禁止、関西弁禁止、短い丈の服禁止、特にスカート禁止、、」よほど驚いたのかもうひとつがどうしても思い出せないのだが、破壊力のある衝撃を受け、相当に動揺した。会議室を出るときには、困惑で、死んだ魚のような目をしていたんじゃないかと想像する。私が所属した部では、ミニスカ生足の人が多かったので、え、私だけ? 理由は? と混乱し、疎外感を感じた。言葉を丸呑みした当日、これまでスカートしか履いてこずズボンを一着も持っていなかった私は、近くのお店でズボンを大量に購入したのを覚えている。笑顔に関しても、私は基本的に笑顔で、かつ笑顔を買っていただき入社したようなものなのに、禁止なの? どんな表情なら過ごしていいの? と不安になり顔がひきつるようになった。会話の中でふと笑顔になっても、あ、笑顔になってしまった、怒られるかも、、とどぎまぎして怯えて慌てるようになり神経をすり減らした。また、関西弁しか知らない私が、関西弁禁止ということで、どんな言葉なら正解かわからず、言葉を口にする度に憂鬱で惨めになり参りきって、集中できない状態であった。ひどく打ちのめされていたのであろう。

画像22

これまで何度も、彼女は好意的な気持ちから伝えてくださったに違いないであろう、と思おうと努めたし、今でもそうであると信じている。が、当時関西出身のベテランの他部署の先輩方に相談しても「あの人はそういうところあるから気にしないでいいよ。ほんまひどいな。」とおっしゃるほどには、どうしても好意の裏には何十%かの影があったように感じざるを得なく、在籍中はもちろんその後も長らく、心に引っかかったままであった。今、はじめて書き出してみておもうが、自然と涙が溢れてくるほどにはつらく、あの頃の自分がいたたまれない。友には恵まれ純粋な人ばかりで穢れを知らない純粋さ丸出しで心が強くなかった私が、はじめましてな大都会東京やイケイケな会社で、営業から人事と畑違いの部署に配属していただき、なにもかもがわからない中、無言の圧を感じたり、自分の存在そのものを否定されるように感じる言葉を受けては、心が壊れるのに時間はかからなかった。

画像22

見知らぬ人たちからの嫉妬や敵意を受け、孤独や疲労で、適切な判断ができなくなっていた。

後者の組織では、社内だけでなく外部からも、入社初日から明確な敵意を受けていた。当時、個人ブログを書いて一年半で計約百万PVあったのだが、そちらにきっかけがあった。文章力がなかった惨めさから、文章をかけるようになるための訓練としてはじめたブログ。書いていた内容は、家族やいじめ、筋トレ、語学留学、ふとおもったことなど、基本的に自分に関する観察、推察、考察、仮説、実験、検証、結果、意見、感想がほとんど。斜め上な視点や考察の鋭さ・深さで、うれしいことに一部の人にたのしんでいただいていたようだ。ブログを書きはじめて間もない頃、以前住んでいた京都のおすすめ処に関して記載した記事が連続して爆発的に伸び、それを機に十を越えるメディアから寄稿依頼をいただき、京都のお寺やグルメ、キャリアに関する記事をいくつかのメディアに寄せさせていただくような時期もあった。大変多くの学びをいただき感謝しているが、題目含め、自分の好きなようには書ききれない不自由さから遠のいた。そうか、私は表現の不自由さを嫌うのだと今、再認識した。Facebook やブログでフォロワーが増えていき、毎日のように見知らぬ人から直接メッセージをいただいては、励みとなる応援や学びに対する感謝の言葉、仕事や恋愛などの人生相談依頼を受けていた。丁寧にお答えしていたことで、何人もの方からおかげ様で転職できました!とご報告をいただいたことを、ひさしぶりに思いだした。

画像25

ありがたいことに、こういった“たのしく”自分で0から推し進めていく力やセルフブランディング力、情報発信力、突破力を買っていただき、インターネットでの発信力を高めることに注力していた組織から、異例の人事ではあるが採用通知書をいただいた。これは、私の実力とは口が裂けてもいう気にもならない、ひとえにある人の熱心な声掛けや繊密な段取り、丁寧な根回しの賜物であり、彼には感謝してもし尽くせず、今も大切な存在として想っている。

入社当日公開した転職する旨を記したブログが、京都の記事のPVを遥かに越え、多くの人の目に触れた。誠によろこばしいことではあるが、私のことを全く知らない人が一部だけを見て判断する恐ろしさがあることを知る。はじめて、アンチという存在を知った。入社して一週間も経たない間に、ブログを読んだ見ず知らずの人から会社の代表電話に「こんな人が入社していいんですか」といったお問い合わせが、知っているだけでも二、三件あった。人事も困惑したであろう。そして、その度にお知らせをいただく私も動揺したりうんざりしたり疲労したり屈辱的にも感じた。ほんまだれやねん、辞めてよお、と弱々しく吐いていた。もう、あらゆる存在が怖く感じた。

画像26

先に記したように、大学から社会人時代は驕りと虚栄心が強く、無知さを曝け出したことで、内容によっては読んだ人を間接的に傷つけてしまっていたのかもしれない。自業自得であり、罪の重さを受け止めていて、誠に申し訳なくおもっている。それゆえに、存在自体が凶器となってしまうようなブログを削除することを決めた。幸運にも、それまでは受け止めたり応援してくれたりする人の存在しか知らず、人から攻撃を受けることがなかった。中高時代のことを懐えばあったのだがやんちゃが過ぎたものでまだかわいらしく、顔も知らない見ず知らずの人からまともに非難を受けるのは人生初であり、あまりにも打撃が大きく、おびえたし打ちのめされた。悪意を示す彼らに対する、ある想いが芽生えたことで私は一層脱皮して飛躍するのだが、それは既に会社を経った後であった。

人からの視線が気がかりで心が不安定に、孤独に。不都合な解釈で自分を一層に苦しめる。

また、そのような心が不安定な中、一層心が引き裂かれるような孤独と面することになった。私を想ってくれての好意的な行為ではあったのだが、残念ながら、あのタイミングでは孤独が増すことにつながる状況となったのである。かの巨大組織には、社内外で輝かしく名を馳せる異端児がいらっしゃった。私は、その一人の熱心なお誘いで入社することになったのだが、入社前後から他の人たちのことも存じ上げていたこともあり、入社おめでとうと言わんばかりにとてもかわいがっていただき、入社一、二週間内に素敵な人をご紹介していただいたりと、色々と教えを受け取らせていただいていた。おなじく多くの人から嫉妬や激励を受けていた彼らは励ましてくださった。本転職に際して入社初日から心がくじけそうな言葉を浴びる機会が増えていた私は、入社後も外部からの電話や同僚の言葉で内心ひどく怯えていたこともあり、心の中に雲がかかるのはあっという間であった。彼らの存在が救いとなっていた。

画像27

ちょうどその頃であろうか。「彼らと一緒だと、あなたもそっちの人だと思われるから距離をおいた方がいい。」と伝えられた。え、、それのなにがいけないのかな、と不思議で仕方がなかったが、実績を出す前に名前だけが先に流れるとあとで苦労するよ、という配慮であったのだと今でも確信している。彼は外資系の大組織の中で着実に成果を出し、まわりから認められ、階段を駆け上がっていく人であった。大組織の大変さを体感しているからこそ、私が順序よく進めるように、という彼なりの計らいをしてくださったのであろう。非常に感謝をしているし、敬意を表しているし、彼なりの愛であったと信じている。ただ、彼と私は異なる人間ゆえに、もしかすると、彼に合うことが私に合うとは限らないのかもしれない。また、彼の意見は最もであり重々承知ではあるものの、もしかすると、その人が抱えるもっと奥の声に耳を傾ければ、より大きな救いとなる本質的な解決策が視えやすいのかもしれないなあ、とふとおもう。とはいえ、当時の私は自分の気持ちすらもわからない状態であったのかもしれず、彼にも私自身にも自分の声を聴くことがむずかしかったのかもしれないね。

また、私が属したマーケティング部は、蜜に手を取り合う必要があったエンジニア部とはよろしい信頼関係を築いておらず、それが仕事に支障をきたしていた部分があったようだ。その架け橋になってほしいという願いを受け、お誘いをいただいていたほどには、そこでの活躍を期待されていたと認識していたのだが、「そちらの部と仲良くなる前に、マーケティング部の人と仲良くなるように。」というご指示をいただくことになる。それもそうですね!と思いつつ、エンジニア部の人からはブログの書き方などをお伝えしている中で、信頼をいただいていて既に結構和気藹々となっていた。彼らとのコミュニケーションを取る度に、無意識にマーケティング部からの視線を気にするようになり、「おはようございます」の挨拶だけでも気後れするようになっていた。ますます孤独を感じるようになる。

画像28

加えて。入社をお誘いしてくださった人とランチしていた時も、その直後か翌日にお話があり、「あの人とランチしていたらしいね、みんな見てるよ。距離を取るように。」とご鞭撻をいただいたときには、気が狂いそうになった。どう考えてもなにがだめなのかわからず、なにをしてもしなくても監視されているように感じ、どこにいても恐れる状態になり、気が気でなかった。また、「あなたは、ADHD だとおもう。診断を受けた方がいい。」と助言をいただいたときも、どういう意図で伝えてくださっているのかが受け止めきれず、胸が潰れるような思いでキリキリしたり、心がかき乱された。たしかその日は早退し、バカ正直に当日受けられる病院を探し、簡易の診察を受けたりもした。実際、隣の部には ADHD を公言し、薬を処方してもらい調整していた人がいたので、「あなたが ADHD で苦しいおもいをしているのであれば、ADHD であることを認識し、処方してもらった方がいいよ」という愛であったのであろうと今なら受け止めることができる。が、当時は既に気がおかしくなり、視えないなにかに怯えていた私は、彼の優しさを素直に受け取れず、どのような言葉も毒のある棘のように感じてしまい、解釈という名の傷をつけて、自分自身を一層に苦しめてしまっていたのであろう。

画像30

幾度となく手を差し伸べようとしてくださった彼に対して、数週間前に改めて、大きな感謝と心からの謝罪をさせていただいた。すると、「当時は守れなくてごめんなさい。またお逢いできるのをたのしみにしています。」と。それほどまでに彼を苦しめてしまったことを申し訳なく思いつつも、大変ご迷惑をおかけした私のことを嫌悪せずにいてくださっていることだけでなく、心からの配慮がこもった言葉のように受け取れて、心から救われるおもいで安心し、癒やされたのであった。どれほどに時間が経過しても、伝え合うことで、心が透明になっていく状態があるのだな、と体感した。お伝えさせてくれてありがとう、聴いてくれてありがとう、受け止めてくれてありがとう、の気持ちで胸いっぱいである。

画像31





お気持ちを添えていただけたこと心よりうれしく想います。あなたの胸に想いが響いていたら幸いです。