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8. 人を知り、個を尊重し、“異なる”役割や特性を受け止める。社会の調和や融合、真のよろこびに通ずる道。

個の尊重を育んだ大学時代。おなじと違いが示す、家族の縁深さに立ち返る。

父と母の経済的、献身的な協力のおかげ様で、志高くなく、成績もぼちぼちながらで申し訳無さも感じつつ、大学へと進学。まさかのまさかで、母とおなじ大学に。「ママとは違う!」と思っていたため、苦虫を噛みつぶしたような表情であったが、運命の引き合わせの壮大さたるは計り知れないね。兄もおなじ大学ではあるが、父と妹はより深いご縁があるのであろう。二人は学部学科までおなじ道を歩んでいる。また、母や兄妹と共に、仏教とのゆかりをいただいていたようだ。交わった時期は様々であるが、幼稚園から中学高校、大学までの間で、それぞれ六年以上。浄土真宗本願寺派(西本願寺)の大きなお寺の近くに実家があり、信心深い母にお祈りを強要されてきたことが苦でこれまで意識を避けていたが、幼稚園も大学も同宗派である私は、過去世においてご縁があるように感じる。曾祖伯母が出家しているようであるが、もしかすると、その生まれ変わりなのかもとおもったりする。

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家族全員が学生生活を送った想い出あふれる地であり、地元よりも故郷のように感じている京都にて、兄妹との関係含め、新たに幕が開く。超大手企業にて社会人として二年間を関東で過ごした後、大学院に進学した兄も、私とおなじく一年生に。四月からの二ヶ月間は、片道二時間かけての自宅通いであった。が、毎晩の帰宅が終電近くと遅く、両親が心配しながら怒って待っているような生活が続いたため、両親が兄に頼み込んでくれて、兄が気を利かせてくれて、下宿させてもらえることに。京都にある大学を選択していたのも家を出たいのが第一理由であり、念願が叶ったわけだ。ゆっくりとではあるが、自らの可能性を切り開き、選択肢を増やしていく旅がはじまる。

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いくつかのコミュニティに属した大学時代での学びは、ひとえに“人を知り、異なりを知り、個の尊重を重んじる”。これこそは、自らの心の内や社会における“調和や融合、真のよろこびを知る”につながる道であると信じている。幼稚園の頃から育みはじめた、軸のひとつとなる特性。興味深いことにこの四年間で巡り逢い、長く時を共に過ごした人たちの中にもまた、私と似た人が誰一人といなかったどころか、かなり色が異なる手合いばかりであった。要するに、「その特性を引き続き培いなさい」という命の元で、然るべく用意された成長の過程であったように感じている。

後に十年来の親友となるかけがえのない存在や、最初で最後の大好きなともだちの“輪”と育み合った刺激や参加のよろこび。四年間そばにいた初彼から教わった、“大切にする、大切にしてもらう”お互いに大切に想い合う異性との愛。なかなかに珍しい体験であろう、兄妹のそれぞれとの二年以上になる二人暮らしでは、“そこに居る・在るだけで満たされる”状態がどれほどに重要かを、示唆されていたのかもしれないね。自分にはない特性を持っている人たちから薫陶を授かり続ける人生の中で、その交わりだけに集中できた大学時代は大変意義深い。

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見事なまでに異なる兄妹の役割。両親のために生まれてきた同朋。

言葉で表現するのははじめてかもしれないが、私たち兄妹は、“個を尊重し合っている”上に成り立つ、特別な結びつきでつながっているように感じている。現時点では三人の結束が固いという印象は強くはない。それよりも、兄と私、妹と私、兄と妹のそれぞれが、異なる色の糸“絆”で結ばれていて、青よりも濃い色で静まる空の上に浮かぶ時空で、辺の長さが異なる三角形を優しげにひらひらふわふわと飛び合い、共鳴したときに必要なことを告げ合う天使のよう。その中心に両親がいて、異なる“星”にいる三人が微笑みながら手をつなぎ、「大丈夫だよ、安心していいんだよ、気を抜いていいんだよ、我慢しなくていいんだよ、見守っているよ、なにかあれば手助けするからね、自分に集中していいんだよ。」「過去に引きずられずに、未来を憂えずに、なによりも今を大切に。そのためには、今のありのままを見つめ、弱さを強さに変えていき、過去の苦しみを浄化していき、不確実な未来を乗り越えられる自負を与えてあげられますように。」と父と母を見守っている絵がみえる。二年ほど前から直感で認識していたが、両親が今世でより一層の高みへと歩む支援をするために、そのための行いとして彼らの心の内にある苦を減らす・取り除くために、彼らの元に私が生まれてきたように感じている。兄や妹もそうなのかもしれないね。

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祖母と母への怒りが沸騰していた私は家族内での緊張は非常に高かったのに対し、兄や妹は比較的穏やかである。私同様に我道をのびのびと歩んでいる二人ではあるが、これまで社会や親の評価をそれなりに意識して、勉強にしても気張って努力を励んできた自負があるであろう。根っこには、社会や人に対する怒りや諦めを抱いていて、もんもんとしている状態が原動力になっていたようにも感じる。共通して、三人共に、深いところで調和を願っている人であり、“力まない”特性をもっている。

父は、見ず知らずであろうと誰かが担わなくてはならない重要な役割が公にあるのであれば、それが疲労を伴うことであろうと率先してかってでる、尊いほどに強い責任感の持ち主である。母は思い込みや思い違いが強く、苦手意識があるにもかかわらず、家事は絶対完璧にこなさないといけないと毎晩焦っていた。そんな二人には、「はいはい、とりあえず、深呼吸して肩の力を抜いてみよう。あなたが担わなくても、誰かがよろこんで担うから大丈夫よ。それよりも、まずは休息を十分に確保し、自分や自分にとってかけがえのない人に寄り添ってみたらどうかな。」と声をかけるのだが、彼ら本人に自覚がないため効果はない。

まわりが心配するほど型破りで不安定そうであるにもかかわらず、本人はこの上なくしあわせそうで心が安定している私という存在。父や母の世代や私たちの世代がもっているであろう、いくつかの固定観念を払拭したり、社会や人そのものにある負の循環やその原因を根絶する役割を担っていると確信している。私の生き方“力まず、心の声を重んじる選択をする”は、ネクストスタンダードになりつつあるであろうが、今では未だ一風変わった浮世離れさを感じる人が多いかもしれないね。

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妹とは小学生の頃、髪の毛を引っ張り合うほどの喧嘩をして以来、たまに無言の距離があれど、いつの間にか仲直り。幼い頃の姉妹にとってパパのような存在であった兄は、いつもすこし俯瞰してくれて、私たちに対して怒りや哀しみがあれども、まあ、しゃーないなあ、と受け止めてくれるのか、対等にはぶつけてこない。時にそれは淋しいが。兄妹歴三十年ともなれば、親しみや信頼が揺らぐ波はあるものの、尊敬し合う土台がしっかりしているのか、安定しているね。私にとっての二人は共通して、必要な時にそばにいて、安心や支え、愛おしさで和をもたらそうとしてくれる存在。彼らにとっての私はどうであろうね、今度問いかけてみたいな。

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おなじ環境で育てど役割が異なれば、特徴や興味対象、大切にしていること、コミュニケーションの起点も異なる。

家族の中で最も配慮と調和のある兄は、利発さとバランスの良さに優れ、両親にはあまり備わっていない効率性と自由、気楽さを重んじる特性をもち、昔から助けられている。面倒を好まないのでわざわざ事を起こすことはないが、既に起こっている事や未然に防げそうなことに対して、斜め上からサッと手を差し伸べ、仲介する人。俯瞰しながら、両者および自分にとって最適な解決策を提示する役割を家族の中で担う。卒業文集には「夢は弁護士、弱きを助け強きを挫く」といい「お父さんとお母さんを危険から守る」と言っていた兄。以前は向いているのかな? と疑問に感じていたが、意外に天職であったのかもしれない。ただ、得意と好きは異なる。争いを好まず和を愛おしむ人なので、弁護士は役割ではなかったのかもしれないね。小学校高学年の頃には、漫才コンビを組んでいたらしい彼は、今でもよく笑っている印象がある。ともだちが多く、いつもまわりに人がいて、ともだちと笑い合うことや人が笑い合っていること、人が自ら笑顔をつくれることを好んでいるようにおもう。

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兄と私は人との交流やコミュニケーションにおいて近しいものの、私たちは事の成り行きの中で起点が異なっていた。兄は外では自ら事を起こす人であるが、家族の中では諦めてきた体験が多かったゆえか、またはそれ以上に大きな希望をもつゆえか、然るべく時を待っているかの様子で、自ら事を起こす姿勢は見受けなかった。ただ、二年ほど前より変わってきたように感じる。両親にとっての孫という宝物の存在のおかげで、彼も両親、特に父のよろこびを肌で感じ、距離をとりやすくなったのか、率先して機会をつくってくれているので、家族の輪が一層に厚くなってきている。

一方。共感や信頼、協力、理解、うそじゃないこと、相互依存を大切にしている私は、「絆を強くするには関わり合い、集いが必要だよね!」と積極的に自ら事を起こし、対話する機会をつくり、全員の視点に立ち、想いを交わらせながら、家族をつなぎまとめるお世話役。

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不思議ちゃんと友人からおもわれるらしい妹は、意外と正義感が強いらしく、家族の中では一番に頭が切れ、対人においては未だすこし弱い部分を感じているようだが、あらゆる能力において圧倒的に長けている。小学校六年間の成績表では、いつも All“A”と安定感があった。会社では、採用のパンフレットやサイトにてたっぷりとインタビューが載ったり、国内外の長期や短期出張の機会を、まるで階段を登っていくかのように与えてもらっているほど、一目を置かれているようだ。組織の顔となり活躍してほしい一人として期待を受けている証であろう。

生まれたときからずっと、何をしていてもしていなくとも、誰か(特に私)から庇われ可愛がれ、みんなから優しく見守られ、ぽわぽわぽわあと居るだけでかわいい癒やしの役割。(かちこいかちこい♡ かわいいかわいい♡)妹が溺愛しているぬいぐるみたちがコリラックマとふなっしーなのだが、驚くほどに妹にそっくりである。ひとつは、彼女が高校二年生のとき、英検の帰りに、一緒になんばでUFOキャッチャーをして手に入れたもの。もうひとつは、ふなっしーとふなごろーTシャツを着て、中目黒と表参道を歩いたほど、二人で大ハマリした想い出深いキャラクター。これまで思いもしなかったが、どちらも私との想い出のキャラであったというのは興味深く、いまさらながらに、妹との愛おしいつながりを感じる。

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本当に困っているときに、ぽわぽわぽわと手を差し伸べてくれる彼女。普段は、それぞれと一定の距離をとり、事が起ころうとも起こらまいとも自分には関係ないかのように概観し(ぼーと見つめ)、動じない安定さと慎重さ、共生力、調和力を発揮している。まわりが一通り主張を終え、静まった頃合いの良いタイミングでぽわぽわぽわあとやってくる感じ。これぞマイペースなのね。はじめて認識したが、このような人を末っ子らしいと呼ぶのかもしれない。心配性の父がまだかなまだかなと待ちわびて胃がキリキリしていてもなお、「あ、忘れてたわあ。やっとくかもね、気が向いたら。」くらいのゆるさで対応する技は、鍛え抜かれた誇らしき鈍感力である。(もちろん褒めている♡)

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そういえば、起業している兄や、転職を繰り返した後に托鉢で生きる修行僧のようになった私と異なり、新卒からおなじ会社で働き続けている彼女は、いわゆる安定感が強い。おなじ環境で育っても、その中での役割が異なれば、こうも異なるものだ。そして、やはり、三歳時点で大体は決まっている感じがしている。

また、三人は興味の矛先も異なる。有名な絵本作家先生のおひげを引っ張るなど、他者において気になったらとりあえず触ってみる・問いかけると好奇心が強かった私。植物に触って香りを嗅いだり木を抱きしめたり登ったり、鳥やうさぎなど目にする動物の動きを観察したりと、生きものが好き。蟻の巣を自らつくっていたほど、蟻の巣やセミの幼虫が愛おしくたまらなく、毎日状況を確認しては昆虫をじっと眺めているのが大好きであった。迷子になるほど山を駆け上るのも溝の縁を歩くのも、できるできないは気に留めず気になったらとりあえずやってみる、そして転ぶも泥だらけになって泣くも正解、体験してわかったらスッキリ、もっとわかるためにもう一回してみる!であったろう。物怖じしなさも相まって、決めたら今すぐGOだ!と勢いがあるためか、母は幼い頃から驚かされることが多かったらしい。兄や妹に対してそのように感じたことはあまり多くはなかったようだ。人間や生きもの、特にその特徴や習性に対して非常に高い関心をもち、無我夢中になる私。物理や化学に一切惹かれなかったのも合点がいく。

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兄は、人以上に社会への目線が高い印象がある。妹は、人への関心はさほどで、物やものづくり、自然の原理、絵や音楽など自己表現にアンテナが立っている傾向が強いように伺える。記憶に断片すらもなかったが、中学時代に avex のオーディションを受けたほどには、表現の美しさに惹かれているのかもしれない。父は妹寄りの兄半分、加えて私事よりも公寄り。母は私寄りだが、妹の自己表現が最大限にあり、誰にもない神様への信心深さが強い人である。本当に親を見て子は育つのだなあと、深い呼吸が漏れるほど、改めて感心している。

さて。おなじ家族で育てど、これほどに異なる特性をもつ兄妹。このように、世界中のひとりひとりが生まれながらにして“異なる”役割や特性を備えている。ひとりひとりの“異なり”を認識し受け止めること、ひとりひとりの役割を認識し活用すること、“人を知り、異なりを知り、個の尊重を重んじる”ことが、社会における“調和や融合、真のよろこびを知る”につながる道であると、感じて。

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コラム:「努力」と「無理をする」の違い。

ふとおもう。なぜ、私にとって努力という単語が体験としてピンとこないのであろうかと。学校の勉強も陸上も好きなことやできたことを好きなように取り組んでいただけで、“無理してがんばった”ことがない。あれ、努力ってなんだろう。一心不乱になったことがあるのかな、、と首をひねる。私は、無意識下で感情を抑えつける点で自分自身に無理を与えてきたことはあるが、意識的には自分に無理を与えない人なのである。無理を自覚したときにすかさず、両手を上げて“私には今、スペースが必要なので“しない選択”を重んじます、選びます”という選択を選んできたのだ。ああ、私にとっての努力は、精進だ。他の評価には目もくれず、自分自身への限界までの挑戦か、目の前にいる人など他者に手を差し伸べる際に最大限の工夫や配慮を配るときにだけに励んでいる。それもそのはずである。私の情熱の対象が人や生きものなのだから。しかも、自分の道をわかっているがゆえに自己規律力が非常に高く、自分への背中押しを必要とせず厭うこともなく、ゲーム感覚でたのしめている傾向が強いゆえに“無理してがんばった”感覚がないのであろう。納得がいく。関心による心の影響を考察するのは非常に興味深い。




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