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前の自分に戻るのではなく、今感じた思いを胸にこれからを生きていく

気を張り詰めていた。

外に出た途端、別の人の皮を被る。自分をマントで隠して変身したみたいに壁を作る。気を許して素顔を出そうもんなら傷だらけになってしまいそうだから。なんでも敏感にとらえる私は感情をなくすように努力している。深く考えないよう、移入しないように。1つのことを一日中考え、あーでもないこーでもないと落ち込み、自分の発した言動に後悔する。そんな毎日はもう送りたくない。

仕事中はもっと気を張り詰めているような気がする。少しでも認められたい、以前はリーダーシップをとっていた私は常に正解を出し続けなければいけないと自分で自分を追い詰めているようだった。

もし、失敗したら自分だけでなく他の人にも迷惑が掛かってしまう

そう思うと怖くて何も判断が出来なくなってしまった。どんな小さな事でも誰かに聞いていた。相談した相手の怪訝な顔でピンとくる

「そんな事は聞かなくてもわかるだろう」

含みのある”間”にその言葉が隠れていると感じた。だって、怖いんだ。もし間違っていたらと思うと何も決断できない。石に躓かないように足元だけに注意して歩いているみたいに。どんなに小さな石も引っかかって倒れてしまったら立ち上がれないだろうから。



仕事に復帰して、3か月目。私は初めて1人の患者さんを受け持った。緩和ケア病棟に入院してくる患者さんは癌を患って、もう何も治療を施せない状態でやってくる。生きてる間の最期の住処になる場所だった。
仕事に復帰するとき、まだ情緒不安定だった私に看護部長が質問した。

「緩和ケア病棟は死と向き合っていく所です。患者さんやその家族と話しても辛くはなりませんか?」

当然の質問だった。5か月間引きこもり、抑うつ状態になってしまった私に看護師という責任ある仕事が果たしてできるのだろうか。もう看護師には戻れないかもしれない、本気で辞めようと考えた瞬間があった。当時の上司に打ち明けると、元々興味のあった緩和ケアの話をされ今の病院に異動したんだ。経験はあったとしても私を知らない新しい職場。精神的な病気も患っている私をさらに不安に思うのは当たり前のことだった。

「人込みの中に入ったりすると、急に人が怖くなって動悸がしたり息が苦しくなったりします。だけど、いつやってくるかはわかりません。患者さんと話してみないとどうなるかは・・・。」

精一杯の声で答えた。まずは働いてみましょうと見守る形をとってくれた上司へは感謝の思いしかない。復帰する場を与えてもらえたのだから。

復帰して間もないころ、しばらく無職だった私は慣れない環境と初対面の同僚たちに緊張の日々だった。

「これはこうしないといけないんだよ」

良かれと思って教えてくれる指導には

”失敗してしまった”

とひどく落ち込んで仕事中に涙がこぼれてくることも多々あった。必死に涙を隠し

”今は少しでも業務を覚えないと”

と自分で自分を奮い立たせ、何もなかったかの様に仕事をしていた。日ごとを追うように毎日の業務には慣れてきて、泣くこともなくなった。それでもイレギュラーなものが舞い込むとパニックになり判断ができなくなるという不安定さを抱いていた。

そんな私に受け持ち患者を持たせてもらうのは、ステップアップできた喜びとそれよりも大きな私で大丈夫かという不安があったんだ。


初めての私の患者さんは、中井さん(仮名)という70代の男性。肝臓に癌を患っている方だった。肝臓には胆汁を(食べ物を消化する物質)作り胆管という管を通って胆のうに保管する。そして消化するときに小腸に胆汁を流し食物を消化し、栄養素に分解し身体に吸収していく。中井さんはその肝臓内の胆管に癌があった。何個か治療はあったんだけど、治療に耐えられる体力がなかった。治すことよりもきつさをなくすことを選択した。「生きていくために頑張る」ではなく、「少しでも穏やかに毎日を過ごす」を選んだ。抗がん剤治療や、内視鏡手術などどんな治療も副作用や合併症のリスクは不可欠。そのリスクに耐えられる体力と病気を治したいという強い精神力も必要だった。
治療しない選択をした中井さんは私の勤める病棟を終の棲家とした。

入院してきた時にはすでに体中はむくんで、腹水(お腹に水がたまること)でお腹は大きくなっていた。全身は胆汁を排出できないために黄染(皮膚が黄色くなること)が出現していた。少し動くだけでも何十倍ものきつさが出て倦怠感が半端なくしゃべることもままならなかった。出会って早々

”相当厳しい状態だ”と確信した。

検査が一通り終わり昼からの主治医の説明で奥さんが

「あちらの病院でも病状はとても厳しいと聞いていました。ズバリですけど、余命はあとどれくらいなんでしょうか?」

核心を突いた質問が主治医に投げかけられた。

「当院でも検査をさせてもらいました、かなり厳しい病状だと思います。はっきりとは言えませんが、おそらく1~2週間だと考えます」

とゆっくり答えた。

「もう覚悟はできてはいます。主人にはなるだけ辛くないように毎日を送ってほしいと思っていてこの病院に相談させてもらいました。よろしくお願いします」

静かに奥さんが話した。

中井さんとは病気に対する深い話が出来なかった。倦怠感が強く長く話が出来なかったから。奥様に話を聞くと、固いお仕事をしていたらしく、悩みを人に打ち明ける事はなかったそうだ。結局、中井さん本人の思いを生きている間には引き出すことが出来なかった。

入院して3日目、血圧が下がりさらにきつさが強まり、身の置き所がないような状況になり、家族の承諾を得て鎮静療法が始まった。


*鎮静療法とは、終末期の状態で痛みやきつさなどの苦痛が強くなった際、麻薬や向精神薬などを微量に注入して昏睡状態にすること

中井さんには2人の娘さんがいた。鎮静療法を開始してから、奥さんと娘さんは付き添うことになる。

病状の経過から中井さんに残された時間はもう短かった。それでも振り絞った力で呼吸をし、心臓を鼓動させていた。お孫さんが「じいちゃん、おはよう」と声をかけると、今まで開けられなかった瞼を開けて可愛い子供たちに言葉を贈ろうと懸命に口を動かしていた。声が出なくなっても、家族の語り掛けに応えようと手を動かしたりと聞こえているのを伝えようと必死に反応していた。その姿を見て”もう頑張らなくてもいいんだよ”と辛くなる気持ちを抑えられなくなってしまった。

消えゆく命の中で私が医療者として出来ることは苦痛を表情から察知し取り除くことと、家族の思いに寄り添い残された時間を本人と共に過ごしてもらうことだけだった。毎日朝と夕方体温や血圧などを測って、リアルタイムの病状を細かくわかりやすく家族に伝えて予測される結果を説明する。それ以外は何もなかった。

もっと中井さんに出来ることはないのだろうか

日々悶々と湧いてくる葛藤に押しつぶされそうになった。

そんな時、奥さんや家族が

「主人にいつも手厚い看護をしてくれてありがとうね。担当があなたで本当に良かった」と言ってくれた。

特別なことは何もしていない。そんな私にいつも労いの言葉をくれる。さらにまた居た堪れなくなってしまって、少しでも身体が綺麗なままにしたいとマウスケアをしたり、身体の圧を抜いて褥瘡予防をしたりと今自分ができることを思いつく全てしていた。それは、些細で本当に小さなことだったけど。


そして、11月29日の午後中井さんは静かに息を引き取った。穏やかな優しい表情だった。その日、奥さんと2人の娘さんは泊まっており長女さんは仕事に朝から出かけた。次女さんは家の用事を済ませるため午前中自宅に帰っていた。午後からまた病室に戻り、奥さんと交代して1人で中井さんを見守る。午前中、昼時と前日と変わりない状態でいたのでその時はまだだと踏んでいたんだろう。奥さんが自宅に戻って行き、次女さんが1人になった時に息が止まった。

「さっきまで息をしていたんですけど、止まりました」

確認してみると、呼吸は停止していた。

「さっき母が出て行ったばっかりで、大丈夫かなぁと思いながらも出て行ったんです。そしたらお父さんが息をしなくなって」

急な変化に次女さんはパニックになってしまっていた。

私は落ち着いた声で

「奥さんにすぐに戻るよう連絡してください。長女さんにも電話でお伝えいただいていいですか?」と伝える。

我に戻った次女さんは方々に連絡し伝えた後、中井さんの手を握り「お父さん、頑張ったね」と涙を流しながらずっとずっとまだ温かい手をさすっていた。

数分後奥さん、長女さんが駆けつけた。次女さんと共にその瞬間の状況をお伝えした。

「少し離れただけなのに、こんなもんなんですかね?」

最期に居合わせられなかった後悔の思いを話す奥さんに

「今までずっと見守っていたのは奥さんですよ。片時も離れない奥さんに中井さんからのもう頑張らなくていいよっていう優しさだったんじゃないでしょうか」と言葉を口にしていた。


「間に合わなくてごめんね、父さん」と済まなさそうに言う長女さんには

「そんなことないですよ。毎日そばにいてくれたから中井さんは寂しくなかったと思います」
と言いながら背中を撫でていた。

お看取りの時間を主治医と一緒に決めた時、3人とも泣いていた。奥さんが

「本当にいい顔で旅立ちました。良くして頂いてありがとうございました。ここに来て看取ってもらえて本当に良かったです」

と涙声で言う姿を見て、私も泣きそうになってしまった。今まで何回も最期の場面には遭遇したことはある。思い入れが強かった分感情が溢れてしまいそうになっていた。

中井さんが入院していたのは8日だった。その間、お話しができていたのはたったの2日。中井さんの思いがどんなものだったのかはもう分からない。もっと話がしたかった。でも、今となっては中井さんもきっと楽になりたかったのかなぁ…そんな風に思えた。

お見送りの際、全身を清拭し衣装に着替えた。中井さんが生前お気に入りだった紺のスーツ。ワインレッドのネクタイを締め、血色を良くするために軽く化粧をした。スーツに身を包んだ中井さんは凛々しくてかっこよかった。

着替えが済んだ姿をみて家族も「かっこよくしてもらったね。いいよ」と、笑顔で語りかけていた。

数日だった初めての受け持ち患者さん。出来ることは本当に少なかった。それでも、見送った後清々しい気持ちになっていた。
それはきっと沢山の事を中井さんに教えてもらったから。

前のように未だに働けてはいない。1人では判断も出来ず、気が張る毎日は変わりなく続いている。それでも中井さんとの数日間が私にちょっとの自信をくれた。
奥さんや家族の労いの言葉にこの仕事のやりがいを思い出せた。

与えなければと思って看護をしていたけれど、蓋を開けてみれば与えられたのは私の方だった。

感情を込めてもいいんだ

人との間に壁を作らなくてもいいんだ

少しだけ前の私に戻れた気がした。


"人の死に向き合う"

今の私の仕事

荷が重いけど、誇りのあるもの

気負わず今のままの自分で精一杯の事をしよう。時には小石にぶつかってもいいじゃないか、時間がかかっても立ち上がっていこう。私にはこれから得るものがまだたくさんあるのだから。



最後まで記事を読んでくれてありがとうございました!