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Critical Legacy 3

 勝野睦人のことを調べたものの、情報がわずかしかないことに愕然としました。「手帖」前身の「文章倶楽部」選者である谷川俊太郎と鮎川信夫二人の慧眼によってその詩才を見出されて颯爽と詩壇に登場、石原吉郎と好川誠一が創刊した詩誌「ロシナンテ」の同人となりこれからという矢先に、まるで渡り鳥であったかのように仲間の前から忽然と空の彼方に去ってしまったのですから、記憶にこそ残るものの記録となる事象が極端に少ないのは残念ですが致し方ないことなのでしょう。

 勝野睦人は、昭和11年(1936)東京の麻布に生まれます。戦時中に長野県飯田市に疎開してそのまま住み続け、敗戦後の昭和30年に現在の県立飯田高校を卒業して東京芸大美術学部に入学、油絵を専攻します。詩作は、高校時代から「文章倶楽部」に投稿しており、東京芸大の入学年に投稿者を中心に創刊された詩誌「ロシナンテ」に参加していましたが、昭和32年(1957)交通事故により死去しました。20歳でした。経歴を書けばわずかにそれだけです。やっと成人男子になりわずかな歳月で急逝したのですから、無念この上ない事故死だったに違いありません。「ロシナンテ」の同人仲間であった吉田睦彦は、「詩学」1974年12月号に「好川誠一のこと」という一文で、《勝野は、自分の詩の世界をつかみかけたところで夭折し》たのだと書いています。また好川と勝野の往復書簡の一部も紹介して、勝野からみた好川のことを絡めて《現代詩に確固たる様式がなく、言語の符号化や、詩そのものの衰頽をあげ、「あなたの主張する詩の大衆化は、このような巨視的な眺望の前で、畢意挫折する他ないのではないか」の立場から「作品を一応、その社会的効用からも、又その創造過程からも切離して扱い、それ自体の論理精進を対象視」したいとしている。/いま私は、その問題を論じる心算はないが、好川と勝野によって代表される、ロシナンテの二つの体質のようなものを、この往復書簡が明確に語っているような気が、するのである》と書いています。勝野の文章は観念的で難解ですが、好川が大衆化と社会的効用を主張していたのだということが読み取れます。吉田が感じ、好川と勝野を《ロシナンテの二つの体質》と指摘している点が示唆的です。この二人は年齢差より生活環境・社会環境による経験値の差異が詩作品のモチーフや志向の差異となり、詩にむかうときの作者の立脚点の差異となったのだと思います。


 急逝の翌年に一〇〇頁ほどの入手が難しい思潮社刊「勝野睦人遺稿詩集」と同人仲間の尽力による「勝野睦人書簡集」が刊行されて遺されました。現在、ネットで何篇かの詩が読め、彼が描いた裸婦デッサンや生前の笑顔の写りの悪い写真をみることができます。それらは1950年代半ばの遺品で、歴史を感じさせられます。以下に、短詩だからこそ特徴が露わな詩篇を二篇引用しておきます。


 「哀しみ」は
 わたしの隅のちいさな砂場だ
 ごらん シャベルがおちている
 緒のきれた 草履が砂にうもれている
 三輪車が のりすててある
 そして 「言葉」が
 枯葉のように
 どこからか 風に吹きよせられてくる
                      「『哀しみ』は」全行


 わたしたちのこころはみな
 底の浅い小抽出しです
 なにげなくつっこんだ紙屑のおかげで
 二度とひきだせなくなってしまう
                         「抽出し」全行

 「文章倶楽部」の若い投稿者グループの最年長で、実力者でもあった石原吉郎が好川誠一をどうみていたのか残された文章からみておきます。《グループはたちまちのうちにふくれあがり、勢力的に雑誌を発行し、仲間喧嘩をやり、やがて少しずつ退屈になつて行つて、昭和三十四年に解散した。そして「ロシナンテ」というグループのこのような消長は、見るもの聞くものが面白いように詩に化けた時期の好川が、やがて似たようなものしか書かなくなり、そしてすこしずつ詩を書く意欲をうしなつて行く過程と、奇妙なほど歩調があつている。いつてみれば「ロシナンテ」というグループは、それほど好川の気質や気分に強く影響されていたということになるかもしれない》と辛辣な言説を連ねているのは、「詩学」1965年10月号の「好川誠一とその作品」という文章の一部です。好川を間近で見ていた石原だから書ける好川象なのだと思います。一方、小柳玲子も先のエッセイ集で好川をこのように描いています。《彼は詩人の列に加わってはいないのだろう。なぜなら彼は詩人が当然越えなければならない苦しい峠を越え得なかったのであるから。表面をどのようにつくろっていようと、詩人と呼ばれる人々はみんなこの峠を越えるのであって、自発発生的な言語だけをもって詩人になれることはない。努力が嫌い、我慢ということができない、悪ガキがそのまま大人になったような好川誠一は峠なんか越える辛さは真平であったのだ》と。なんとも辛辣なのですが、好川自身も《詩なんか書く奴はバカ》だとか、《30をすぎたら詩なんか書かない》などと周囲の仲間に毒づいていたといいます。しかし現実には、遺書と思えるような詩を出版社に送った後に自殺したというのですから、寂しがりであった彼一流の強がりで、決して本心ではなかったはずなのです。「ロシナンテ」の三羽烏であった勝野が急逝し、唯一の拠り所であった「ロシナンテ」が1959年に廃刊となり、好川は詩が書けなくなっていました。石原吉郎は、1964年に第一詩集『サンチョ・パンサの帰郷』でH氏賞を獲得します。その祝賀会を最後に好川は仲間の前から姿を消しました。重度のノイローゼになり、奥さんの実家がある山梨に移り住んで静養中であったといいますが自死してしまいます。享年30歳でした。好川を「太陽の子」と呼んだのは粕谷栄市です。粕谷にとっての好川象はあまり人間臭さがありません。むしろ、《彼の唯一の詩集、というより、原稿の整理の小冊子と呼ぶべき「海を担いで」(略)冒頭の二篇に、はげしく驚愕した》と書き、さらに続けて《殆ど、超越的な生命の無垢の世界を、そこに感じた(略)私たちが失うことによってのみ生きることを可能とする性質のものであり、その純度の高さによって毒とすら、感じられるものだった》と、「詩学」1974年12月号の「好川誠一 毬買うか死者より遠き冬の山」で書いているように、粕谷にとっての好川のイメージは作品が主であったことがわかります。生身の詩人と身近で接することの難しさが石原や小柳の文章で感じられます。通常、生身の詩人が作品のイメージを上回ることは滅多になく、そのあまりの差異に愕然として裏切られた思いが残るのではないでしょうか。詩人の人間臭はあまり見聞きしたいものではありません。


                             (つづき)

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