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とつぜんの再登校から感じたこと

現在小2の娘は、小1の1学期から学校へ行かなくなり、以来自宅やフリースクールで過ごしていた。
が、今年度も終わろうとしているこの3学期から、とつぜん再登校をはじめた。それから2週間ほど経つ。その間感じたことなどの記録。

ちなみに  私は  【 学校に行く・行かない = 善・悪 】ではない、と思っている。行ってもいいし、行かなくてもいいと考える立場での記録です。( 紆余曲折、数々の葛藤を経ての今 )



| 再登校のきっかけ

秋頃から、「お友だちと過ごしたいから学校へ行けるようになりたい。自分が不登校と知っている子が誰もいないクラスだったら行けるかも・・」と漏らしていた娘。とは言え、具体的に動き出すのはまだ先かな〜など思っていた。

その後も決定的な「何か」があったわけではない。
でも「いろんな要素やタイミングが重なって」の再登校であることは確か。

久々の登校から「楽しかった〜」と帰宅した彼女の様子は・・・何だか、じわじわと自分の中の「行きたい気持ち」が溜まっていって満タンになり溢れ出し、「登校」という行動がおこった、そんな風に見えた。

「行きたい気持ち」の内訳 はきっとこんな感じかも? (という母視点)

お友達と関わりたい!という気持ち
お友達と遊びたい、一緒に過ごしたい、という気持ちが強まっていたこと (通っていたフリースクールでは年上の子が多く、同年代の子との関わりたい気持ちがあったみたい)
心と体の健康
食べて、眠り、自然とやりたいことが湧き行動にもうつせる状態。家庭やフリースクール・学校、習い事など各所で、そのままの自分(学校へ行かない自分) でも否定されない・受け止めてもらえる、という体感の積み重ね。
先生への信頼感
不登校の子としてではなく、  娘自身に興味を持って関わってくださったこと。できることに目を向け続けてくださったこと。(春からのほぼ週1・放課後登校にて)
学校 (や教室 ) が馴染みの場所であること
同じく 春からのほぼ週1・放課後登校で、教室の自分の席で先生と過ごしたことから、教室に自分の場所がある という体感
家族の関わりを通しての安心感
お正月に会った大好きないとこのお姉ちゃんから、学校行けるよ!大丈夫!と励まして後押ししてもらったこと
親の「学校へ行ってほしい」という眼差しがないこと (例え言わなくとも漏れ出てしまうみたい・・)
学校生活の中でお願いしたい配慮が伝わっている安心感
年度初めのシェアにより、 登校の際お願いしたい配慮も、いざ再登校となったときスムーズに受け入れてもらえたこと。当初は、再登校のイメージも全く湧かなかったが、もし登校できた場合にお願いしたいことを共有していた。
※ 多様な学びプロジェクトさんの「学校への依頼文」を利用させていただきました
( ▶コチラより詳細ページ・フォーマットのダウンロードも可能 )

※ あくまで「我が子の場合」のため
他の子どもにそのまま当てはまらないことも多々かと思います。


| 学校のある暮らし

再登校  はじめの週。朝から下校時刻まで登校する日が続いた。
帰宅後は宿題をし、翌日のために早く寝る。翌朝起きて時間に出発、という毎日。

楽しくて仕方がないのだろう、張り切って登校 (準備も含め)しているのでこちらが心配になるくらい。
週の終わり、木曜帰宅後。怒りっぽくなったりだいぶ疲れが見えたので声をかけ、けっこう疲れてると思うから明日は休んでもいいんだよ〜!と。
でも休むのはしっくりこないようで、擦り合わせ。給食だけ参加を提案すると「いいね♪」と明るい顔に。

再登校  2週間目。学校のある暮らしを把握してきた娘。
その日の時間割・給食・宿題の状況をみて「午後までいるとしんどいから給食まで」とか「給食たべるだけじゃなくて給食当番もやりたい(お当番の週でした)」とか「今日は気持ちが乗らないから休む」とか。
日によって、まちまちの暮らし方をして過ごした。

驚いたのは・・・こちらで何も言わなくとも、翌日学校へ行くと決めている日は、「◯時には寝る、だからお風呂には◯時に入ろう。夜ご飯は◯時に食べたいからママお願い!」と自分で考えて決めて、必要な所は人に頼み (ついでに「オーケーグーグル!」とGoogleアシスタントにもアラームを頼みwww) 実行していたこと。

これまで自宅で、自由に誰に指図されるでもない自分のために自分で時間を使ってきて。
その中でいつの間にか「やりたい・やる!」と決めたことに対して、自分で段取りして進めて行ける力が身についていたんだなぁと。そんな成長に気づかせてもらった出来事。


| 学校という集団の中に入ることでの「同調圧力?」

娘の変則的な登校にあわせて、私も送迎で付き添う必要が出てきた。
一気に学校との接点が増え、教室には子どもたちがたくさん。それが廊下に沿って4クラス並ぶ。

これまで、各々自宅で好きに過ごしていたのが、学校に一歩足を踏み入れた途端、「周りと足並みを揃えなければ」という思考が勝手に働きだす私に気づく。同時にその思考への違和感も。

ありがたいことに、いまの娘のクラスは先生も子どもも自分のペースで過ごす娘を受け入れてくれていると思う。
「皆と同じように、登校から下校まで過ごさないと!」という空気は感じない。

「同調圧力」確かに私は、これを学校やクラスという集団の中に感じてきた。
せっかく学校に行き、頑張って1時間過ごして早退となれば
「もう帰っちゃうの?次は〇〇の時間だよ〜」(先生)とか、
「義務教育だから学校は行くんだよ!」(クラスの子)とか、

それでも居られずに帰宅するときの『周りと同じにできない=ダメなこと』として親子の心に深く刻まれてしまう。そんな雰囲気が学校にはあった。

きっと、それがあって湧いてきた「周りと足並みを揃えなければ」という思考。
これは本当にそうなのだろうか?


| 娘の中にもある?「みんなと同じようにやらなくちゃ!」

そんなことを考えながら娘に目をやる。
宿題が出れば、やらなきゃ!と疲れていて不機嫌になりつつもやろうとする。できていないと、翌日の登校意欲に直結したりする。

彼女の中にも「みんなと同じようにやらなくちゃ!」って気持ちがあるのかも。

こんな思いでやる宿題・勉強はしんどいよなーと思う。
家族が「宿題やらなくても大丈夫だよ〜」と声をかけても届かず。このままで勉強嫌いにならないか?阻止したい気持ちにも駆られるけど、いや違うな〜これは娘の決めること。そう思い直して。

自分で決めてやってみてどう感じるか?全部体感してはじめて「どうしたい?」が選べるよね。その繰り返しでしかない。
みんなと同じにできなかったときに、それが自分の存在価値と結びつかないように、そこだけはフォローできるようにしよう。


| 自分の目で見て確かめよ!

長々書いたけれど、不安、心配、こうしなきゃ、したほうがいいとか。そんなことに頭が向くときは、過去(もしくは未来)に意識が向いていることが大半。

「今」はどうなの??
目の前の子どもは?子どもが通うクラス、見てくださる先生は?

娘を観察する。遅刻・早退・休み、ケロッとしている。宿題は相変わらずだが・・・でも家にいる時、学校で過ごす時、それぞれにいい顔をしている。
クラスを見てみる。先にも話したが、今の娘の現状を指摘・非難する人はいない(そんな眼差しも感じない)。行けば、〇〇さん!と歓迎してくれる雰囲気がある。
先生と話す。娘の気持ちを尊重したいと話してくれる。来てくれることが嬉しいと伝えてくれる。

あれ?周りと足並み揃えるとか、別によくない?
いまのままで全然大丈夫じゃない??

そんなことが見えてきた。


| 私ができること・やること

できること・やることは 、きっとシンプルだ。

目の前のわが子を見る。
本人を信頼する、任せる。必要なときに必要なことを自分で体得していっているから大丈夫。
「〇〇して、助けて、手伝って!」言われたことを淡々とやる。

一般的に言われていることや、人からのアドバイス、過去の経験・知識は持っていても構わない。けど、それに振り回されないこと。

人と関わることや学びの手段のひとつとして学校がある。
家とは違うその環境を活かして、その時々程よい距離感で過ごせたらいい。
その主役は娘であり、その娘をどうサポートしたい?という視点での主役は私であるなぁーと、そこを忘れずにいたい。


終わりに・・・
「周りと違うことを学校でする」ということが迷惑行為であるように、付き添い登校をしていると思えてくることがあった。

でも、この再登校によって感じたのは
ちょっと違う子がクラスにひとり居るだけで「こういう子もいるんだなぁ〜」という『リアルな多様性』を肌で感じてもらえるんじゃないか。
それによって、気持ちが楽になる子どももいるんじゃないか。

そんなこれまでとは違った感覚も湧いてきている。
同じ学校に付き添うのでも、以前と比べ、心持ちがこんなにも違うことに・・・驚きと、いまこう在れる、この環境すべてに感謝だなぁとしみじみ思っている。

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