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嫌われたくない私はここに来た

人目を気にしてしまう小心者の私は「気持ちを素直に書き言葉にする」という作業が極めて困難に思われる。

口語体、文語体なんて言葉があるが、かつて両者の間にあった距離は段々と短くなり、今の私たちがその差を意識することは殆どないような気がする。

e mailなどは仕事で使うことが多く、正式な文書という重厚なオーラを纏い、どしんと構えている。そもそも正しい日本語、正しい敬語を日常以上に求められるきらいがある。それは半永久的に残るという「書く」という営みの性質が最も光る場所でもあるからだろう。

e mailに書かれる文が形式的だとすると、
LINEなどというチャット機能のついた媒体において、それらは自由を内包している。
文が送信されるものの、それはほぼ話し言葉そのもの。吹き出しの中の文字を読む時、私は相手の口調まで連想してしまう。

思いつきで「相手の口調まで連想」と書いたが、これが私の苦手意識の元凶であると今気がついた。

私は「話す」作業と「書く」作業をイコールにすることができない。もっとも、他者がイコールだと思っているかどうかは私にはわからないが、兎に角、私にとって「書く」という行為は話し言葉と切り離され、ある独立性を持ってそれのみで自立しているものなのである。

だから一種の表現の場であると認識しているInstagramなどでは、写真と共にほんの少しでも文章を添えるとなると、文字数や改行の位置、語尾や絵文字の有無までも考えてしまう。

大抵の場合、句読点が邪魔になることが多く、本当はできる限り簡潔に、シンプルに、そして感情の起伏は絵文字ではなく使う言葉で表したいと願う。

しかし投稿を見る知人に、その文を私が口に出しているところを想像されたらひとたまりもない。

想像の中の私はきっとキザだし、気取ってるし、自惚れている。
(あながち間違いではないということが1番イタイところではあるが)

十数分練って書き上げた文を全て消し、面白みのない単純な単語を並べて、最後には毒毒しく絵文字を添えてしまう。

そして半信半疑になりながら投稿ボタンに人差し指で触れる。いいねが増えていくたびに、これでよかったのだろうかと謎の後悔とご対面。

かと言って、好きに文を並べて披露し、
自分の思考の深さに酔うプライドの高い変人だと友人から一蹴され、一線引かれることは、私が最も怖がっていることのひとつである。

嫌われたくない、変わってると思われたくない、人と違うとは思われたくない。

思ったより私という生き物がちっぽけで臆病なひとりの女子大生であることが情けなくなった。

だが結局は己の文章力というか弱い何かを試してみたくなった。人を選んででも自分の文章というものを披露したくなった私は、思い切ってnoteを書いているのである。

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