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「そのときに今の私ができあがったんです。ぐうたらで適当な私」-『ライフストーリー インタビュー』

「そのときに今の私ができあがったんです。ぐうたらで適当な私」

浅川 真紀 (51)


仕事を辞めてから1年3ヵ月、復帰も転職もせず働いていないけれど、生きていけてるんですよね。
以前なら「食べていけなくなる」と思って辞めるなんてこわくてできなかったし、実際に病気にならなければ今も働いていたと思う。でも病気になって辞めざるを得なくなって、辞められて。しかも生きていけてる。フタを開けたらできた、っていう話なんですが、やっぱり病気というきっかけがなければ開けられないフタだった。
だから何かのきっかけに遭遇しない限りは、みんな流されているんじゃないのかな、日常に。それは生きていれば多かれ少なかれみんな。
ただやっぱり辞めたときは体調が悪かったから、元気になることが意識の100%を占めていた。だけど元気になると今度は経済的な不安だったり、「働かなきゃ」というような焦りを感じるようになって。そのときに、ああ、私は結局いつも何かを心配してるんだ、ということに気づいたんです。
次から次へと、ちゃんと自分で心配事を見つけてきている。だって状況はなにも変わっていない。療養中も働いていないわけだから当然収入はなくて、治療費と生活費で貯金が減っていっているだけ。でもそのときはお金の心配よりも、体調が良くなるだろうかという不安しかなかった。
それで手術を受けて、体が回復してきたら、今度は「お金どうしよう」って、もうそっちに100%心配がいく。「貯金が減る一方だ」って。収入がないという状況はまったく同じなのに、自分の状態が変わったことで心配の中身がまるきり違うものに変わってしまった。
だとすれば働き出してとりあえずお金の心配がなくなったとしても、今度は別の心配、それが何なのか今は分からないけれど、おそらくは仕事に関する心配。それを私はちゃんと見つけてくるんだ、っていう想像がもうついてしまった。
そのときに「あ、心配してもしょうがないな」って思ったんです。だとしたら心配なんてしないで、ただ流されるのもいいのかもしれない。それは今までとはちょっと違う意味の、なんていうか、良い意味で流されるのもいいか、と思ったんです。

だいたい心配なんてしようと思えばいくらでもできるし、これからどんな心配事が起きそうか?っていう想定にもバリエーションは果てしなくあって、キリがない。それに現実は想定外が起こることのほうが圧倒的に多いわけだし。
そもそも私は19歳で交通事故にあったとき、「人間いつ死ぬか分からない。だから適当に生きよう」と思ったんです。
そこでどうして「適当に」と思ったかというと、それまでずっと流されて生きてきて、学校に行く意味が分からない、なんで勉強しなきゃいけないのか、なんのために生きているのか?みたいな状態で、実際に中高で学校に行かなかった時期もあったけれど、そこで「行かない」を貫き通せたわけでもなかった。親もそうだし、自分もやっぱり「行かなきゃ」という思いがどこかにあったから、自身と周りのそういうものにただ流されていた。「行かない」という選択をしたわけでもなかったし、「行き続ける」という選択をしたわけでもなかった。
だから出席日数が足りなくなるほど休んだわけではなかったけれど、学校に行くのはずっと面倒くさかった。特に雨の日とか。気分が乗らないというか、濡れるのも面倒くさいし。中卒で働こうと思ったこともあったけれど、やっぱり同じように親に言われるまま流されて高校にも行った。それでじゃあ親が言ったようにやっぱり高校は出ておいてよかったか?と言われたら、それは今でも分からない。比べることなんてできないわけだし。
それで高校を出て看護師の専門学校に入ったけれど交通事故にあって、それは1年くらいうつ病でちょっと精神を病んでいた時期でもあった。
しばらく療養して体力が回復して、精神力も戻ってきたときに、また学校に戻ろう、そういう強い意志や希望みたいなものを持つ人もいるんだろうと思う。思うけれど、私はそういう気持ちになれなかった。むしろいつ死ぬか分からないんだったら適当に生きよう、そう思った。
そのときに今の私ができあがったんです。ぐうたらで適当な私。19歳で事故にあって、それからの人生はオマケ。それで38歳を越えたときにオマケの人生のほうが長くなった。その間にも大変なことが本当にたくさんあったから、やっぱり好きなことして適当に生きよう。38歳になったとき改めてそう思ったんです。

けれど結局、子どもがいて、仕事があって、また日常に流されてきた。それで今度は病気になった。だからそういうタイミングだったんじゃないかな。外国に移り住んで、離婚して、ひとりで育てたひとり息子が家を出て、病気になって、仕事がなくなって。なんにもなくなって、そうだ、やっぱり好きなことしよう、ってまた思ったわけだから。
自分をごまかしつつやっていくしかない、流されるしかない。学校にしても仕事にしても、辞めたいけれど、辞めるという選択もあるけれど、辞めたところでどうする?その先なにもない。だからたくさんの人が生活のために、家族のために、そうと気がつくこともなく流されるしかない。疑問やストレスがあったって働くのが当たり前。流される自分を許さざるを得ない。それが今の社会のしくみだという側面もあると思う。
そんな社会のしくみや流れの一部が強制終了になったのがコロナであって、私にとってはその少し前の病気の発覚だった。だからきっと世の中全体で「あれ?」と立ち止まった人が多発したんじゃないかな。考えなしにただ流されていたこや、そもそもこの社会の流れっておかしくないか?そういうことを、いかに見て見ぬふりをしてきたか。
そうして仕事から離れたら、はじめて自分のいろいろなことを知ることができた。病気になったうえに痛み止めを飲んでまで出勤し続けて、もうダメだ、となってようやく辞められるまで、こんなにも職場が苦痛だったことに自分でも気づけなかった。疑問やストレスの自覚はあるのに辞めるという選択がほぼなかったことの異常さに気づけなかった。でも気づいてしまったから、もうあそこには戻れない。
そこまで自分自身のことがハッキリしてきたときに、やっぱり好きなことしよう、もそうだけど、私にはなにかもっとほかにできるんじゃないか、私が本当にしたいことは何なのか?そういうことを考えるようになったんです。

そうして仕事を辞めてから1年以上が経って、今は働きもせずに好きなことしかしていないからストレスなんてないんです。
好きなものを食べて、好きな時に寝て。まさに適当に生きてる。貯金が減ってゆく不安はあるけれど、裁縫の収入ではまた生きていけないから。だからがんばらなきゃ、と思う。というか、がんばりたいし、もっとがんばれる!好きなことだからがんばれる、ぜんぜん。だいたい「がんばる」ことではないですよね、好きだからそんなこと考えずにやれちゃうわけだし。
ただ、マスクはもういいな~!創作の余地がほとんどない、作業の割合が8~9割だから。それでも収入のためにはやるけど、イヤなことではないし。
それにマスクはもうつくり飽きたけれど、「何百人といるつくり手の中から私を選んでくれた」っていう喜びを見つければ、「ありがとう」っていう感謝になる。好きなことをしてお金をいただけて、ありがたいなあって。
これからは私が作った作品だけではなく、オリジナル作品を型紙に起こしたものを販売するほうにも力を入れたい。まだ小規模ながらソーイングレッスンもやっているんですけど、やっぱり私は裁縫の喜びを伝えたい。裁縫なんてやったことない人でもぜんぜん気軽に来られるような、それこそおばあちゃんが直線縫いだけでエコバッグ作ったり。そうやって手作りのものをつくる楽しさや、それを自分で使う喜びを伝えたいし、そういう人が増えてくれたらいいなと思う。
そうしてレッスンをやっていたりすると、それこそ流れだと思うんです。出会いと流れ。紹介だったり、ひょんなことからレッスンを知って来てくれるようになった人もいるし、SNSで突然メッセージをくれて通い始めてくれた人もいるし。もちろん続かない人もいるけれど、それはそれで「縁がつながって、そしてなくなった」ということなんだろうなと。後追いしたところでしんどいだけだし。
そういう意味でも流れなんですよね。というか、想定できることなんてほとんど起こらないし、なにより想定内なんてつまらない!想定外が楽しいんです、ワクワクするから。

想定外という意味では私の場合はコロナより病気のほうが時期が早かったのもあるし、きっかけとしても大きかった。どちらにしても、どんなことにしても、起こってしまったことはしょうがないから、それからどうするか?だと思うんです。
病気もコロナも、嫌な思いをさせられる他人であっても、それらを変えることはできないわけだから、自分の中でどうぐるっと回すか。ぐるっと回して、受け入れる。逃げられるならそれがいちばんいいけれど、逃げられないことのほうが多いから。
そうして逃げ道だとか自分がぐるっと回すことだとかを考えていると、周りをコントロールしようという意識がなくなってくる。それは困ったことやつらいことばかりじゃなくて、あらゆることに対してコントロールしようとは思わなくなる。
たとえば、実は今日、私の誕生日なんですよ!あ、お祝いくださってありがとうございます!
このインタビューははじめ別の日を予定していて、それがたまたま今日に変更になったじゃないですか。昼間は珍しく友たちに突然誘われてたこ焼きパーティに行ってきたんです。もちろん今ひとり暮らしだし仕事もしていないから突然誘われてもすぐ行けるというのもあるんですけど、私が予定して決めたわけでもないのに、思いがけずたくさんの人とたくさん話ができて、楽しい誕生日を過ごすことができた。こうやって想定外や意外性があるともっと楽しくなるし、幸せだよなあ、って思ったんです。
そういう積み重ねで、コントロールから自由になることをつかむというか。隣の家の飼い猫がたまに遊びに来るんですけど、家のソファでのんびり寝ているのを見たり、私にくっついてきてくれたりするとやっぱり嬉しい。でも猫はコントロールなんてできないから。そういうものだと分かっていれば、来ないかなあとは思っても不自然な期待はしないし、来てくれたときも特別に感激したりせず、ただ嬉しいし、その時間が楽しい。

結局、想定内なんてつまらない!きっと私は心底からそう思っているんです。だから文句言いながらも、ダメージ食らってばかりのしんどい人生でも、きっと波乱万丈を自分で選んでいる。
ただ、しんどいのを楽しむことなんてできないし、楽しもう!なんて言えない。だってしんどい時はただただしんどいわけだから。渦中にいる時はまた想定外だ!楽しい!とか、それどころじゃない。人生のどん底、この世の終わり、ってなるから、何回も。
でも、失敗したっていい、何回でも。そもそも何をもって失敗なのか?というのもあるし、だからいいの、そのあたりも適当で。失敗は人が決めることじゃない。自分が失敗だと思ったら方向転換すればいいし、そういう全部は人にとやかく言われることじゃないから。自分が納得すれば、なんでもいいし、後悔もない。
そうやっていつもベストを尽くしてきた?いや、私はぐうたらだから、ベストでない場合も多々、多々あった。でもそれも含めて「あの時の私はベストを尽くせなかったじゃん」って、他人にツッコまれる前に自分で自分にそうツッコんで、受け入れる。それができないときに後悔が生まれちゃうんじゃないかな。あのときもっとこうしておけば、ああしておけばよかった、っていうような。

後悔していることですか?ひとつだけあります。なんだと思いますか?たぶん、分からないんじゃないかなあ。
本当に今までの人生でいろいろなことがあったけれど、私がひとつだけ後悔していること。それは、歯をちゃんとメンテナンスしてこなかったこと!4~5年前なのかな、結局2本抜きました、虫歯で。もう痛みがものすごくひどくなっちゃって、勝手に涙が出てくるし、夜も眠れないし。とにかくめちゃくちゃ痛くて、めちゃくちゃ後悔しました。それからは半年に一度クリーニングに行くようになったからきっかけとしてはよかったんですけど、それでもものすごく後悔しています。歯は元には戻らないから。

(2022年1月)



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