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soda

スープ。波が崩れた後に立ち上がる白い泡。


 美羽(みう)という私の名前。美しい雨の美雨(みう)に憧れる。何しろ水は美しい。蛇口を捻って出てくるものでも、店舗に陳列するボトリングされたものでも。海で荒れ狂い揺蕩うものでも。光る泡を産む炭酸水でも。雨でも。


 後ろから男の人の声がした。
「元気ないね。彼氏と喧嘩でもした?」
「……秋谷から歩いて来たから」
「アキヤって? 遠いの?」
「この辺の人じゃないんだ?」
「初めて来たんだよ」
 二十歳くらいの男の人。後ろの砂浜に横たわるサーフボード。
「ここは波が無いんじゃない? SUPしてる人しか見かけないよ」
「始めたばかりだもんで。人が多いと一つの波には一人ずつしか乗れねーから、静かなとこで練習したくて愛知から来たんだ」
「愛知の方が遠いじゃん……。何歳?」
「十九」
「今年で?」
 同じ歳だった。陽に灼けた肌と、筋肉質の体が、大人っぽく見えた。
「地元? 羨ましいよ。俺はサクト」
 八月。サーフィンを楽しんでいるサクトの方が羨ましかった。私は水着ですらなくて、ビーチをただ歩いていた。


 細い雨粒が落ちてくる。雨のビーチほど私を溶け込ませるものはない。雨は波に溶け、いつかまた雨として生まれるのだろう。私の六十パーセントは水で出来ている。綺麗な水を感じるたびに、この体にも綺麗なものが詰まっているのだと信じた。

 午前中に降り始めた雨は、少し勢いを増した。持っていた傘を差して、愛知から来たというサクトを見ていた。私はサーフィンをしたことがない。沖に浮かぶ人影は見飽きることがなかった。海に溶け込んで、波の一種のように見えた。
 海岸沿いの駐車場に、黒いミニバンが止まっていた。後部のドアを開いて屋根にする。真水が入ったポリタンクが積まれていて、サクトは頭から被っていた。水を分けてもらって、ビーチサンダルごと足を洗う。そこで服に着替えるらしい。ドアが開いた後部に座って、雨の向こうの海を見ていた。

 海から県道沿いを歩いて帰る。町の西側は相模湾に面していて、漁港、マリーナ、ビーチが連なっていた。歩くと汗ばむ。雨足が強まったけれど、気温は三十度くらいだろう。坂道で滑るビーチサンダルも気にせずに、雨の中を歩く。建設中のイタリアンレストランが、スタッフ募集の広告を掲げていた。休工なのか、ひっそりとした工事現場の脇に佇んで、募集の広告を読んだ。十八歳以上。学生不可。九月上旬オープン。スマートフォンで広告の写真を撮った。


 今朝は八時にビーチに着いた。サクトはまだ波を見ていて髪は乾いていた。挨拶の代わりに歯を見せて笑う。見たことがある犬や人たちが散歩をしていた。昼食を挟んで、朝と午後の二ラウンド海に入る予定らしい。そして車で一泊しながら愛知に帰ると言った。

 氷が入ったプラスチックのカップ。イートインスペースのカウンターに座ってペリエを注ぐ。炭酸水と氷が音を立てて混ざる。平日だけれどお昼のコンビニは混んでいた。
 サクトは車中泊をして昨日の早朝神奈川県に入り、大磯から相模湾沿いを走って三浦半島に辿り着いた。海岸からすぐの旅館に泊まったらしい。隣の椅子でアイスコーヒーを片手に、自分のライディングのチェックをしている。頼まれて撮影した動画。私は炭酸水を飲みながら、国道を行き交う車とバイクを眺めていた。

 午後も波の上のサクトを撮って過ごした。
「LINEする」
「じゃあね」
 バンは湾に沿う国道に消えて行った。サクトは、陽が沈む海を見ただろうか。


 八月六日。人工妊娠中絶をしてから一ヶ月が経った。前を向こうと思った。たとえ許されないとしても。海は美しかった。その美しさは拒絶を湛えているような気がした。私が入れば海は汚れるのだろうか。細胞から生まれ変わりたい。夜中に目が醒める。冷蔵庫から冷えた白湯のポットを取り出してグラスに注ぐ。冷たい物が喉を通り過ぎていく時、水分が細胞に行き渡るのを感じる。全ての細胞が生まれ変わった時。私は新しい私になったといえるのだろうか。祈る気持ちで白湯を飲み干した。



ショルダー。波が崩れる部分から少し離れた、まだうねりの部分。


 家から数百メートル歩いて、新築のレストランに着いた。用意していた履歴書を渡すと客席に座るように言われる。配られた一枚の用紙に、簡単な履歴を書かされた。集まった八人が用紙を提出して、同時に面接が行われる。その後、女の人と私、二人の男の人が残されてオリエンテーションが始まった。四人ともスーツを着ている。バイトの面接だから私服でいい、と思っていたけれど、母の言葉を聞き入れてスーツで来て良かった。四人以外に男女一人ずつのスタッフがいて、自己紹介があった。レストランのコンセプトやオープンまでのスケジュールを聞き、明日からのトレーニングの説明を受けた。私にだけ親権者の同意書が渡された。夜、仕事から帰ってきた母に書いてもらう。トレーニングスケジュールのプリントを見ていると、スマートフォンが振動して着信を知らせた。サクト。私の顔が画面に映っている。ビデオ通話?
『寝とった?』
 メイクを落とした顔が眠そうに見えるのかも。恥ずかしいけれどスマートフォンのレンズを見る。
「ううん。バイト決まった」
『今日が面接じゃなかったっけ』
「そう。その場で決まったの」
『すげーね、おめでとう。俺もそっちで働きてーよ。一度行っただけで住みたくなった。また金が貯まったら行く』
「遠いから、簡単には来れないでしょ」
『次は半年後の予定』
「半年後かあ。今度は彼女と一緒かもね」
『今はサーフィンばっかだで、こんな俺でもいいって女はいねぇと思うけど。ミウは仕事が始まったら男が出来そう。……モテるだろ』
「こんな私でもいいって思ってくれる男はいないよ」
『はは。何だてそれ』
「てか。何でビデオ通話なの」
『よくない? 顔が見れてよかったよ』
 サクトが私の名前を呼ぶと「ミュウ」に聴こえる。サクトは穏やかなイントネーションで話す。


 レストランに着いて正面から入った。オーナーに挨拶する。スタッフの男の人が裏口に案内してくれた。
「ここから二階に上ると、休憩室とロッカー室になってるから」
 レストランの二階は、屋根の梁が剥き出しの作りで畳敷きになっていた。古い卓袱台が二台並んでいる。その上にダークグリーンのサロンと、深紅のネクタイが置いてあった。オープン前日のプレパーティーまでに用意する物として言われた、白いブラウスとカジュアル過ぎない黒のロングパンツ。持っていた薄手の白いブラウスと黒のスキニーを着てきた。これにネクタイとサロンを合わせるらしい。先に来ていた二十一歳の女の人がネクタイをしていたので、教えてもらいながら結ぶ。
「うちどこ?」
「すぐそこ。歩いて来た」
「いいね。私は横須賀から車。十五分くらい」
「車持ってるんだ。私免許持ってない」
「この辺は車ないとキツくない?」
 今日は私たちだけらしい。十時からトレーニングが始まった。


 デシャップに並ぶ出来たてのパスタの皿は熱い。他の人は平気なんだろうか。出来上がった皿を三枚持った。三枚の皿をテーブルからテーブルへ。決して熱さに顔を歪めたり出来ないし、客の前では笑顔でメニュー名を伝えなければならない。あまりの熱さに何回も皿を放り投げたくなったけれど、次第に店は混み、皿が凶暴な温度を抑える程の忙しさになった。

 トレーニングの時、何枚も大きな皿を持つ方法を教えてもらった。スタッフの金子さんが、左腕だけで五枚の大皿を運んでみせる。バランスを崩したり、サーブ中に接客することがあるので、基本は右手を空けておくそうだ。ドリンクを一度にたくさん運ぶ時は、トレイの自分側から背の高いものを並べる。万が一グラスが倒れてしまう時は自分が汚れるように、客の側に倒れないように努める。鬚とボディピアスが渋い金子さんは、イタリアンレストランの社員というよりはクラブでDJをしていそうだった。営業後は全員残って賄い飲みの時間。サラダとピッツァを摘みながら遅くまで話した。


 九月最後の定休日の月曜日。二十一歳のアミと、アミの子供とドライブした。小さい子供を連れたママが集まるカフェに着く。
「じゃあミウは遠距離恋愛なんだ」
「付き合ってはないけどね」
「私は年下の男と付き合ってるよ。アキラの面倒も結構見てくれるから、うちの親とも仲良くしてる」
 アミの息子のアキラは、キッズスペースで楽しそうに声を上げていた。
「軽蔑すると思うけど」
 小さい子供たちの声が響き渡っていて、隣のテーブルの声も聴こえなかった。
「七月に堕したんだ。父親が分かんなくて」
「そっか。キツかったね」
 高校の時から続けていたバイトを辞めて、毎朝ビーチに出かけた。両親に心配も迷惑もかけた。自分を産んでもらったことに心から感謝した。償いたくても、どうすれば償えるか分からない罪。
「――私は十五の時に堕したよ。すぐには別れなかったけど、そのうちお互い浮気して、その時の浮気相手がアキラの父親なんだけど。そいつがギャンブルにハマり過ぎててミルクやオムツも買えなくて、お互いの実家に頼ってばかりだったんだ」
「そうだったんだ」
「うん。うちは母親だけだし、借りても返せないってのが毎月続いてマジキツかったからさ。自分ん中で、今度親に金借りるハメになったら別れようって決めたんだ。すぐにケジメつけることになって、黙ってアキラを連れて家出たんだよ。それが去年の七月」
 小学校を卒業するまで一人で私を育ててくれた母が、義父と籍を入れた。そして海沿いのこの町の中学校に通い始めた。三年間通った私立の高校は、母の収入だけでは受験できなかったと思う。私は義父のことを親だと思っている。
「親は子供が幸せになるのをいちばんに願ってくれてるからさ。ありがたいよね。自分が親になって身に沁みたよ。ミウはその子の分まで幸せになってあげること。そうすれば親孝行にもなるし」
 アミの息子を抱かせてもらった。よく人見知りするという一歳七ヶ月のアキラは、腕の中で私を見上げて笑った。


 綺麗な遠浅の水色の海が広がっている。サクトがLINEで送ってきた画像。
 白い灯台。立ち並ぶパームツリー。
『内海』
「なんて読むの」
『うつみ、だよ。俺のホーム』
 シーズンオフの内海は、海水浴客の姿はなくても多くのサーファーが浮かんでいた。



ピーク。波が押し上げられ、これから崩れようとする部分。


 月曜日。海の水と海から吹く風に、たまに冷たさが混ざる。鏡面のような凪を照らす陽を数枚、スマートフォンで写した。砂浜を行く人々が逆光に陰って、海が光っている。


『テイクオフ』9:24 

 今朝、サクトから動画が届いた。誰が撮ったのだろう。かろうじてサクトだと分かるその動画を、何度も繰り返して観た。午後のビーチの写真をサクトに送った。

 部屋に戻って「サーフィン テイクオフ」を検索する。テイクオフ、波に乗る瞬間。波と同じ速さでパドリングが出来ていないと、テイクオフは難しいらしい。やはりサーファーは波と同化していたのだ。
 あの海にサクトがいたとき。波待ちの姿勢からパドリングに入り、ボードに立ち上がるまで。そのタイミングで動画を撮って欲しいと頼まれた。私もひたすら波を待っていた。波はほとんど無くて、テイクオフらしい動きは三回しか撮れなかった。今朝の動画の海は波が立っていた。テイクオフしたサクトが、滑る姿が撮られていた。あれから二ヶ月。サクトのサーフィンは確実に上達していた。


 遅番の火曜日。黒いオフショルとブルーデニムのショートパンツで、レストランに向かった。サクトと出会った日に、着ていたコーデ。卓袱台でオーナーが店のインスタグラムを更新していた。
「今日のオススメは何ですか?」
 しらすのピッツァと地野菜のバーニャフレイダ。相模湾産のしらすと、地元の農園から直接仕入れた野菜を使う。バーニャはソース、フレイダは冷たいという意味だそうだ。十月に入って雨が止み、暑い日が続いていた。
「スタッフ募集も載せたから、連絡があったら俺か金子に繋いでな」
 サーバーはオーダーを受けると、フードをキッチンに通しドリンクを自分で作る。満席のディナータイムはドリンクのオーダーが多く、提供時間が遅れがちだった。今回の募集はバーとデシャップを担当するスタッフだった。薪釜で焼いたピッツァが評判になり、レストランは毎日混んでいた。
 アイドルタイムが終わりウェイティングが出始めた。キッチンの二人とオーナーは滅多にフロアに出ない。サーバーは社員の二人、キャッシャーはアミ、案内は私が中心で動くことになっている。中学以来の友達が来店して、懐かしげに話しかけてきた。同じバスケ部だった女の子。中学のときの彼氏も席が空くのを待っている。あまり話したことはないけれど、同じコーヒーショップでバイトしていた女の子と一緒だった。バスと電車を乗り継いで通っていたコーヒーショップには、ごくたまにしか顔見知りが来なかった。この町は狭い。

 営業終了後、二階の座敷で賄いのピザを食べる。スタッフの応募が十数件あり、一人内定したとオーナーから連絡があった。アイドルタイムに面接に来た女の人だろう。
「オープンから一ヶ月、皆の頑張りで大幅に予算を上回った。本当にありがとう。休暇は毎年二月八月の予定でしたが、イレギュラーで取ってもらいます。年末はろくに休んでもらえなくなる。今の内に英気を養ってください」
 連休が取れるのは十月十一日から十二月十日。正社員の二人のシフトはオーナーが設定するので、バイトの四人は九日の日曜日までに希望を出すように言われた。最長五連休。
「あまり嬉しそうじゃないね」
 隣にいたアミが、心配そうな顔で言った。考え込んで黙っていたことに気づく。
「ううん。楽しみだよ」
「あ。行きたいとこがあるんじゃない?」
 愛知に行くと言ったら、サクトはどう思うだろう。


『おはよう』6:09

 午前中、サクトは海にいることが多い。サクトが働いているサーフショップは、十三時から十九時まで営業している。毎日二十三時過ぎに眠るサクトとゆっくり話せるのは、私が早番の日と休日だけだった。

 早番の日は十一時までに店に入る。十五時から十七時まで休憩して、二十一時に店を上がる。賄いは一食四百円ずつ給料から天引きされた。割安なのと美味しいのとで、毎日二食頼む人が多かった。営業後は、ハウスワインとつまみをオーナーが振舞ってくれた。遅番の日は十三時に店に入り営業終了後の二十三時で店を上がった。週末やスタッフが少ない日は、オープンからラストまでバイトすることもあった。
 五連休が取れること。そして「名古屋に行く」というメッセージをサクトに送る。合わせて休んでほしかったけれど書けなかった。五連休を頼むのは無理だろうけれど、せめて一日だけでも一緒に過ごしたい。一日中でも毎日でも、一緒にいたいと思っているのは私だけだろうか。



リップ。波がカールする前の一番高い部分。波の中で最もパワーを持つ。


「お疲れさま。仕事終わったよ」 21:11

 キッチンにパスタを取りに行く。毎日これだから絶対太りそう。
「……」
 思っていたよりも早く、スキニーのバックポケットでスマートフォンが振動した。通知をスライドして気が滅入る。非表示に設定しただけでは、メッセージが届いてしまうらしい。ブロックしてトークを削除する。非表示にしていた他の二人もブロックした。高校の時の元彼と、好きだった人。好きだった人には、何年も付き合っている彼女がいた。彼曰く、セックスレス。どこまでが本当だったのだろう。バイト先のコーヒーチェーン店の社員だった彼は、今年に入って彼女と籍を入れた。ハワイ土産にドリップコーヒーをくれた彼の友達から聞いた。「まだ結婚祝いをもらっていないからハワイに連れてけ」と、彼が冗談を言っていたこと。「彼女と一緒に暮らし始めた」と彼に伝えられた時に過ぎった、苦しさと絶望のようなものの正体が現れた。妊娠したことは言えなかった。三人に「もう会わないから連絡しないで」とLINEしただけ。


 妊娠判定薬が陽性を示して、母にありのままを打ち明けた。仕事を休んだ母は、横浜の婦人科に付き添ってくれた。妊娠二十週目。二十二週を超えると、もう中絶は出来ない。産んでもらってもらうこともできる、と先生は言った。妊娠十二週以降の中絶は、ほとんど分娩と同じ方法で行われる。手術の説明を聞き、日時を決めた。六月の終わり。梅雨の晴れ間の暑い日だった。病院にタクシーを呼んで、二人で後部座席に乗った。
「おめでたですか」
 ふいに運転手の声がした。
「……ええ」
 隣に座る母が応えた。
「今日は真夏日ですし、今年は猛暑が予報されてますから大変ですね。お大事になさってください」
 私は何も言えなかった。表情も変えられなかった。「ありがとうございます」母が笑顔を含んだ声で言った。みなとみらいでタクシーを降りる。母と二人で暮らしていた時、たまに来ていたイタリアンレストランに入った。
「お母さんもピザ? シェアしよ」
「いいわよ」
 二枚のピザが同時に提供された。サーバーワゴンの上でビスマルクがカットされ、卵の黄身が広がる。プロシュートにルッコラが添えられ、パルミジャーノが幅広に削られて舞っていく。
 私がオーダーしたビスマルクを口にして、母が思わずという感じで呟いた。
「美味しい……!」
「ビスマルクはドイツ統一の中心人物だった首相の名前らしいよ。半熟卵が好物だったみたい。ドイツ統一っていっても、西ドイツと東ドイツが統一したときじゃなくて、そのもっと前にドイツ民族が統一されて国家ができたときの首相ね」
「……あなた、頭のいい子なのに」
「私は、馬鹿だよ」
「そうね。馬鹿だわ。本当に馬鹿だわ」
 母は微笑みながら泣いていた。


『お疲れ』
 サクトからの返信はビデオ通話だった。
『名古屋に来るって本当なの』
「うん。サーフィン見せて」
『来てくれるなんて思っとらんかったもんで、でら嬉しい』
 社員の女の人がくっついてきて、画面のサクトに挨拶する。
「いま店なんだ。賄い食べてる」
 カメラを切り替えてパスタを写す。
『じゃあ風呂入って来るわ。出たらラインする』
 社員のナギがパスタをフォークで弄んでいる。
「ビデオ通話とか、いいなー。私ね、彼氏と店を持ちたいんだ。でもあいつ就職したら、二人の店のことなんか忘れたみたいで。あんなにイタリアに修行に行こうって、二人で貯金しようって言ってたのに――」
 キッチンのシンジが、大盛りパスタを持って上がってきた。
「それ、うちらのと違いすぎない?」
「ナギ、営業中から飲んでただろ。男と何かあった?」
「飲んでないよ! 馬鹿!」
 シンジはこの町の出身だった。同じ中学校の一学年上で、調理師免許を持っている。
「私がソムリエになるなんて、ムリだって言うんだよ。毎日酔っ払ってたら覚えたことも忘れるって。勉強しながら飲むわけないじゃん! 朝なんて何も言わないで仕事に行っちゃたんだよ」
「愚痴ってないで帰って勉強しろよ」
 ナギは同棲している彼氏に迎えに来てもらっていた。彼氏はナギが酔って帰ってくることを、よく思っていないらしい。ナギは少し飲み過ぎたりするけれど、接客もボトルワインの説明もキッチンのフォローも出来て、さすが社員だと思う。
「金子さんが『ミウと連休合わせろ』ってオーナーに言ってた」
「冗談じゃない? 連休は被れないし」
「ミウをウェッサイに染めるって言ってたぜ」
「今日のギャングスタラップ、金子っちの仕業か!」
 そういえば店のBGMで、メロウなヒップホップが流れていた。
「さっきミウの彼氏見たよ。金子っちじゃ勝てないね」
「彼氏じゃないし」

 サクトからLINEが来た。
『二泊くらいできる? 俺も連休取るよ』



カール。波が一番巻き上げていて、一番スピードを得られる部分。


 新しいスタッフが二人決った。一人はスナックで働いていた二十六歳の女の人。十一日からシフトに入っている。もう一人は逗子のカフェレストランで働いている二十二歳の男の人。来月からシフトに入るらしい。
 私の連休は来月の二十一日からになった。アミが連休に入ったので、私が新しいスタッフのチユキさんに教えている。チユキさんは教えなくてもカクテルが作れるし、ビアサーバーが使えるし、生ビールのジョッキを五つも持つことが出来た。私の役目はほとんどなかった。ボトルワインの提供の仕方を、少し教えたくらい。

 二回目の給料日。銀行の封筒を差し出すと、母は驚きつつも受け取ってくれた。そっと、深呼吸する。
「来月、五連休があるから旅行に行くね」
「旅行? どこに、誰と行くの?」
「愛知県。一人で行ってくる。名古屋で二泊するの」
 サクトのことを話した。八月にビーチで会ったときのこと、名古屋駅まで迎えに来てくれること。五枚の一万円札と、旅行の日程、サクトとホテルの電話番号を書いたメモが封筒に入っている。
「そう……。あなたは言い出したら聞かないから」
 母は呆れたような笑顔で、メモを抜き取った封筒を私に返した。
「彼ばかりにお金を使わせたら駄目よ。来月からはよろしくね」
 母のため息を聴きながら、もう二度と心配させたくないのに、私は少しも変われていないと思った。


 名古屋で新幹線を降りると、空気の匂いが違っていた。改札の向こうのサクト。履き古したジーンズと、黒いジップアップパーカー。パーカーから白いTシャツが覗いている。ジーンズから覗くヴァンズのスニーカー。私は淡いブルーのクラッシュデニムのスキニーに、ネイビーブルーのニットのプルオーバーを着ていた。ローカットのオールスターを履いている。ボトムとスニーカーが微妙に似ていた。
「腹減った?」
 さり気なくバッグを持ってくれる。月曜日の十二時過ぎ。初めての愛知県。初めての名古屋市。JR名古屋駅の上は背の高いビルになっていた。十二階まで上がる。エレベーターからは空が見えて、名古屋の街が拡がっていた。

「平日と思えない」
 十二、十三階のレストランフロアは、どの店からもウェイティングの客が溢れていた。
「だで名駅は好きじゃねーんだわ。もう少し食べんでも平気?」
「美味しいものが食べれるんだったら我慢する」
「俺がそうゆう店、知っとると思う?」
 黒いミニバンに乗る。むせ返るほどのココナッツの香り。暗がりの駐車場を出て、街の中を走った。高速に入る。名古屋の街は何処までも平らに拡がっている。

 ミニバンがエンジンを止めたのは、鉄板焼きの店の駐車場だった。昔ながらの佇まいの店。サクトはガラスの冷蔵庫から飲み物を勝手に出して、グラスを二つ持ってきた。お好み焼きと、目玉焼きが載った焼きそばが届く。
「犬、平気?」
「好きだよ。大きい犬は少し怖いけど」
「うちのは小さいから連れてきていい? 人懐っこいし、噛んだりしねーから」
「いーよ。サクトの犬?」
「弟って感じ」

 サクトの家はすぐ近くの一戸建てだった。車の中で待っていると、ミニチュアダックスを連れてきた。
「ルーイだよ」
 ルー、サクトはキャリーをシートベルトで固定して、ルーイにおやつをあげた。
「どこに行くの?」
「今日は波がないけど、内海に行く? ドッグランがある公園に行ってもいいし」
「海がいい」
 サクトは返事の代わりに笑顔を見せた。
 ルーイは十三歳のオスで、人間でいうと七十歳近いおじいちゃんらしい。ミニバンは、名古屋高速から知多半島道路に入った。
「まだサーフィン始める前だけど、ルーイを連れて内海に行っとったんだ。ルーイと浜を散歩しとると、かわいい!って何人も女が寄ってきて」
「ふーん」
「で、地元の女の子と知り合った。高校生に見えたけど中三だった。半年くらい何もできんかった。俺にはもったいないような人で」
 その子と別れてサーフィンを始めた、もうナンパはしていない、とサクトは言った。
「何で私には声をかけたの?」
 会ったこともない女の子に嫉妬した。サクトにもったいない、と思われた女の子。
「泣いてたから」
「え」
「泣いとるように見えた」
 運転するサクトの横顔は笑っていた。

 ミニバンは南知多道路に入った。後ろの席でルーイが甘えるように鳴き始めた。もう海が近いのかもしれない。


 海岸沿いのサーフショップの駐車場。ミニバンのエンジンが止まる。ルーイの首輪にリードを着けて車を降りた。先にビーチに向かう。広い砂浜が弓なりに続いていた。サクトが送ってくれた画像と同じ、透き通った遠浅の海。ルーイはとても大人しくて、レジャーシートに座る私の横で寝そべったり、たまに波打ち際を歩いたりしていた。サクトは一時間くらいで海から上がり、砂浜のゴミを拾い始めた。私も一緒に拾った。ルーイが後をついて来る。
 サーフショップに戻ると、女の人がカフェラテを出してくれた。温かい飲み物を手に、シャワー中のサクトを待つ。
「彼女はサーフィンしないの?」
「しない」
「サクトに教えてもらったらいいのに」
 女の人が笑顔になる。この人がサクトの動画を撮ったのだろうか。
 飲み物のお礼を言って店を出た。二人と一匹で車に乗り込む。午後五時。海は少しずつ、夜の色を見せ始めた。


 夕闇が迫る海が助手席側にしばらく続いた。国道二四七号線の看板。車の中に流れる音楽と夜の海。湾の向こうに光が連なっている。低空に浮遊する光は飛行機で、海の上に空港があるのだとサクトが言った。離着陸する飛行機たちはゆっくりと漂っている。

「腹減った?」
「減ったよ」
 笑いながら答えると、サクトが眉を顰めた。
「昼にも同じこと言ってた」
「……じゃあさー聞くけど」
「何?」
「初めて会った日。何で待っとってくれたの? ミウが見とってくれるのも、俺が波に乗っとるのも、ずっと前からみたいな気がしてた」
 赤信号でバンが止まった。サクトがこっちを向いた時、瞳を濡らし始めた涙が勝手にこぼれた。
「また泣く」
 またって。今までサクトの前で泣いたことないじゃん。
「泣かないで。俺まで泣けてくるが」
 夜を映すサクトの目は、優しい色をしていた。



フェイス。波の斜面、サーフィンで滑るメインの部分。


 夜の高速道路を走っていたミニバンが、ウィンカーを点滅させて出口に向かう。青く光る街路樹が並ぶ通り。通り沿いの立体駐車場。エレベーターで裏の道に出ると、人が行き交う商店街が続いていた。アーケードの屋根がイルミネーションで彩られている。赤い提灯が並ぶ寺の前を通り過ぎて、白いツリーと大きな招き猫が立っている広場を右に曲がった。サクトの家でルーイと別れてから、ピッツェリアに連れて来てもらった。正式なナポリピッツァ世界チャンピオンのお店。青い星たちが煌いているような屋根の下。店の前の椅子に座って待っていると、窓際のテーブルに案内された。
「店の前は何度も通っとるけど、初めて入った」
「この辺よく来るんだ」
「近くにスケートパークがあるもんで、滑りに来とった」
 スープとサラダが一つずつ運ばれてくる。ピッツァは、マリナーラとマルゲリータを頼んでいた。
「でらうめー」
「でら、って?」
「あー。すげーって意味」
 サクトの前に置かれたマルゲリータを食べた。
「ほんとだ。すごくおいしい」
「できるだけ、標準語で話すようにしとるんだけど」
 マルゲリータを齧りながらサクトが言う。
「いつもみたいに話して。好きだよ、サクトの話し方」
「名古屋じゃ普通だて」
 サクトは不貞腐れたように窓の外に顔を向ける。

 緑色のボトルと、氷の入ったグラスがテーブルに届いた。サンペレグリノをグラスに注ぐ。炭酸が弾ける音を聴いて顔を上げると、サクトと目が合った。『さっきは何で泣いたの? ミウが言いたくなった時でいいもんで、話して欲しい』まだルーイがいた車内に、サクトが浮かべた言葉を思い出す。


 ホテルに送ってもらって一人で客室に入ると、さみしさと同時に心地よい疲れが押し寄せてきた。翌朝は八時の約束。ユニットバスに湯を張って、温まってからシャワーを浴びた。コンビニで買ったペリエを、ボトルから直接飲む。サクトに話せるだろうか。中絶した人はいくらでもいる、きっと話しても大丈夫だ。そんな考えが浮かんだ途端に、自己嫌悪が激しく頭を殴りつけた。何てことを考えたんだろう。私は殺すために自分の子供を産んだ。産まれても生きていけない赤ちゃんは、すぐに死んでいった。私は自分の子供を見せてもらうことさえ拒否した。正式には人工死産というその分娩の後は、火葬や死亡届の提出をしなければいけない。私はそういった手続きの全てを病院に代行してもらった。私はあの場に及んでも自分を庇って逃げていた。前日に子宮口を拡げるための処置をして、夜ベッドに横たわったとき、赤ちゃんの足がお腹の中を蹴った。私は、あの優しい痛みを決して忘れない。


 朝の名古屋。静かな雨が降っていた。ホテルの一階のコンビニでサラダと飲み物を買う。バスルームで歯を磨いていると、部屋からLINEの着信音が聞こえた。

「今日はどこに行く?」
「海」
 わかったよ、とサクトが笑った。愛知県には昨日見た伊勢湾と、もう一つ三河(みかわ)湾という海があるらしい。三河湾に浮かぶ、江の島に似た竹島という場所に着いた。小雨を感じながら海を渡る橋を歩く。橋の下の海はとても浅く、たくさんの小鷺が立っていた。
 竹島にも神社があった。雨脚が強まり、一度駐車場に戻った。駐車場に面した水族館に入る。江ノ水と違って小ぢんまりとした水族館は、数分で一周できたので、ゆっくりもう一周した。
 自動販売機まで走って、二人で飲み物を選ぶ。雨に濡れた顔を見合わせて笑う。ミニバンに戻ってタオルを借りた。バスタオルを被って熱いコーヒーを飲んだ。雨粒が車の屋根や窓を叩く。
「産まれる前は羊水だっけ、水の中におるよね。だで雨とか海の中は落ち着くのかな」
 ガラスを打つ雨からサクトに視線を移した。
「ごめん。俺、変なこと言った?」
「なんで?」
「泣き出しそうに見えた」
 フロントガラスの向こうに、雨と白い雲が連なっている。この雨は、あの日から降り続いているのではないだろうか。
「昨日は泣いてごめん。サクトと初めて会った日は、供養をしてたんだ。子供を堕ろして初めての月命日だったから」
 あの子は自分が生まれてくるのだと疑わずに、私の中に居たのではないだろうか。それとも。前日の処置をした私を恨んでいると知らしめたのだろうか。
「俺も自分の子供を殺した」

「昨日少し話した元カノ、ミウと同じ名前なんだ。漢字は美しい雨って書くんだけど」
 サクトは三ヶ月だけ大学生だったらしい。夏休みが始まる前、彼女は「他に好きな人がいるから別れて」と言った。サクトは「そいつのところに行けばいい」と言った。そしてまた戻って来てもいいと。でも本当は、彼女は妊娠したことが言えなかっただけだった。腹の膨らみが目立ちはじめた彼女は、自分の母親に打ち明けた。母親はサクトに連絡するように諭した。中絶には相手の同意が要る。
『お母さん、気づきませんでしたか』
 母が産婦人科の医師に言われて、声をつまらせていたことを思い出す。ほとんど家に帰らず、帰ってもベッドで寝ていただけの私の膨みはじめた腹に、母が気づけたわけがない。手術の日。相手の名前の欄に、母が代理で署名をした。前の彼氏の苗字と「光」という名前。母はどういう気持ちで、光という文字を書いたのだろう。サクトは、どういう気持で自分の名前を書いたのだろう。
 美雨……。美羽という私の名前。美しい雨の美雨に憧れる。 何故なら雨は美しい。何故なら、
「ミウ、泣かないで」
 サクトが好きだから。
 何度も、くちびるを重ねた。 悲しみを、ひとつひとつ拭うように。

「罪を償う方法はあるんだよ」

「それは『笑顔でいること』」


「ちょっとめんどくせーことになっとって」
 家からの電話に出ていたサクトが、気まずそうな顔で言った。
「親がミウの分まで飯作っとるんだわ。悪いけど寄ってやって」
 竹島から、一時間くらいでサクトの家に着いた。緊張しながら車を降りる。玄関のドアを潜る。ルーイが座って待っていた。
「いらっしゃい」
 サクトのお母さんが右手のドアから現れた。
「はじめまして。アオイミウです」
「はじめまして。ヤマグチユリです。寛いでいってね」
「ありがとうございます。おじゃまします」
 目がサクトに似ていた。二重で少し垂れているところ。
「緊張しんでいいよ。うちの親、女の子に甘いで。女の子が欲しかったらしいわ。うちは俺と兄貴だけだで。兄貴は家を出とって今はおらんから、彼女連れて遊びに来いってうるせーらしいよ」
 ソファに座るとルーイが隣に乗ってきた。ルーイを撫でていると少し落ち着いた。

「美味しい! これなんて料理ですか?」
「がんも煮。たくさんあるでね」
 白いご飯と味噌汁、カレイの餡かけとポテトサラダ。初めて食べたがんも煮は、柔らかくてとても美味しかった。
「ミウちゃんは料理するの好き?」
「嫌いじゃないけど、あまりしないです」
「たまに友達と料理するのが楽しくて。ミウちゃんと一緒に作れたらな。うちの男共は食べるばっか。一緒に作る楽しみが分からんのだわね」
「はあ」
「ミウちゃんとこのレストランは人気なんだってね。忙しいでしょう? いっぺん行ってみたいな」
「ぜひ。大歓迎です」
 サクトと随分感じが違う、よく話すお母さんだった。
「サクトは何を黙っとるの。いつもはね、ずーっと話しとるの。ミウちゃんのこととか、サーフィンのこととか、ミウちゃんのこととか」
「うるせーなー。しゃべっとらんで食えよ」
 煮付け以外のカレイも初めて食べた。揚げたカレイに甘酸っぱい餡が良く合っていた。


 水曜日。雨は止み、風が吹いた。私はサクトのテイクオフを見た。



ボトム。波の底の平らな部分。穏やかに見えて巻き上げる強い力が働いている。


 ナギは連休に入っても店の二階に勉強しに来ていた。一度、一緒に金子さんのソムリエ講義を受けた。金子さんの左胸には、金色の葡萄のバッジが光っている。

 月曜日。金子さんとシンジが車で迎えに来た。ナギの彼氏の部屋から荷物を運び出す。ナギも一緒に金子さんのステーションワゴンに乗り込んだ。
「二宮くんってかっこよくない? 明日から一緒に仕事するの楽しみー」
「俺のほうがイケてるんじゃねーかなあ」
 と金子さん。
「まあイケてるけど、怖いから」
「二宮はチユキさんを気にしてるみたいだぜ。残念だったな」
「てかシンジ、なんで連休取らなかったの?」
「金貯めてるんだよ」
「じゃあユウヤに負けるな! まじ応援してる」
「なんだよ俺がユウヤに負けてるみてぇじゃん」
 キッチンのユウヤが焼くピザも、シンジの絶妙なアルデンテも大好き。途中で寄った海岸線沿いのダイナー。彼氏と別れたばかりのナギを元気付けるように、金子さんとシンジのテンションは高い。
「ナギの魚と植物、かわいいね」
「でしょ。ベタっていう種類の魚と、ベンジャミンっていう木。ベンジャミンあんなに育つと思ってなかったー。金子っちの車が馬鹿でかくて助かった」
 長年付き合っていた彼女と結婚するつもりで買った、というステーションワゴンでナギの実家に向かう。アミから来ていたLINEに返信しながら、窓の外の海を眺めた。車内は、金子さんの元カノの話からワインの話に変わって盛り上がっている。
「試飲会でワイン飲めないから、おいてかれてる気がして焦るよ。アミは子育ても頑張ってるから尊敬してる」
『親と彼氏に助けてもらってるから、尊敬されるようなことじゃないよ。それより、このまま遠距離でいいの? 名古屋に行って彼のそばに居たくない?』
 サクトに見送られて名古屋駅の改札を通るとき、引っ付いていた皮膚と皮膚が剥がれるような気がした。
 私はたまたまスーツを着ていて採用されたけれど、期待外ずれだったのではないだろうか。


 もう十二月も後半。サクトから動画が届いた。
 
『ボトムターン』10:52

 サクトのショートボードが、波の下の方で大きく深くターンして波の上まで戻って行く。
 内海でサクトのサーフィンを見てからひと月経っていた。レストランには毎日のように忘年会の予約が入っている。通しでバイトをする日が増え、サクトと話せる時間が減った。

 定休日のみなとみらい。電車の広告も地下鉄の駅もファッションビルの中も、クリスマスカラーで彩られている。サーファー御用達の広いショップ。コーヒーみたいな色のマグカップを手に取る。ラックには空みたいな色のハーフパンツ。
「プレゼント用ですか?」
 笑顔の店員さんに声をかけられた。床にかっこいいスニーカーが置いてある。サクトのサイズを知らない。スニーカーの上の棚に、いくつかのネックレスがぶらさがっていた。
「サーフの時だけじゃなくて、勇気のお守りとして身に着ける方もいますよ。お揃いで着けてみえる方も多いですね」
 お揃いにしたかったけれど一つだけ選んだ。ショップの奥に併設されているカフェに入る。平日だけれど、一人で座っているのは私だけだ。


『オフザリップ』11:25

 波がカールする前の一番高い部分付近で決める技、リッピングの一つ。ボトムターンから一気にリップに向かいターンを決める。ターンの瞬間、大量の水しぶきが上がってサクトの体を取り巻いていた。

 サクトから新しい動画が届いた日、オーナーから連休の連絡があった。二月十一日から三月十日の間の、定休日を含めた最長五日間。二人ずつ休めるようにシフトを調整するらしい。

『今度は俺がそっちに行く。鎌倉あたりでサーフィンしたいもんで、つきあって』


 サクトは海風の中で私を待っていた。
「行こうか」
 逗子海岸に出るまでは、まだ薄暗い空に雲が混ざっていた。たまに併走する海に目を凝らす。トンネルの向こうに現れた海が、朝の光を迎えはじめた。助手席側に広がる由比ガ浜。稲村ヶ崎を越えて七里ヶ浜に着く。波間にサーファーたちが浮かんでいた。ジャケットのフードを被る。風が冷たい。サクトが熱い缶コーヒーを渡してくれた。
「嬉しい」
「そんなにコーヒー飲みたかった?」
「会えて嬉しい」
「……俺も」
 こめかみにサクトのくちびるが触れた。
 二人で並んで海を見た。サクトは波の様子を見ている。私は水平線と間近にある江の島と、よく晴れた空を見ていた。江の島の向こうに真っ白な富士山が見える。

 お昼は、ビーチから入れる一三四号線沿いのダイナーに行った。前にナギたちと来た店だ。濡れたウェットスーツを着ていても、テラス席で食事をすることができた。陽射しが暖かくて、潮風が清々しい。
「その動画送ってほしいな」
「これ?」
 私が撮った動画を見ていたサクトが顔を上げた。目が合っただけなのに、鼓動が速くなる。
「ほかにもあったらほしい」
「チェックしたら消すもんで、ミウに撮ってもらったやつしか残っとらんよ」
「そうなんだ。いつも、誰に撮ってもらってるの?」
「店の人。だいたい朝は一緒になるから」
「……前にいた女の人とか?」
「……もしかして妬いてる?」
「妬いてるよ」
「俺もミウの店の人に妬いてる」
 一緒に撮らねー? シャッターを切ったサクトがおかしそうに私を見る。
「ビデオだった」
 動かない二人の動画を再生して笑った。

 傾きだした陽が眩しく海を光らせる。サクトは私を家まで送ると、旅館にチェックインしに行った。今日はサクトが夕食を食べにくることになっている。材料を切って用意していると母が先に帰って来た。そして準備が終わる頃にサクトが到着した。
「遅くなったけどクリスマスプレゼント」
 サーフショップの紙袋にペールブルーのドリームキャッチャーが入っていた。
「買いに行ったんだけど、水色は売ってなかったから作った」
 くもの巣のような網にスターフィッシュがついている。いくつものビーズとやわらかい羽根がぶらさがっていた。
「めちゃくちゃ嬉しい……。ありがとう!」
 私もラッピングしたネックレスを渡した。サクトはすぐに身に着けてくれた。
「お守りで被ったな」
「ドリームキャッチャーもお守り?」
 インディアンのお守りで、良い夢だけが網をすり抜けて悪夢を絡め取ってくれるという。
 三人でダイニングテーブルに座る。母は赤ワインを飲んで、たまにしか作らない私の料理を食べていた。
「良かった。美味い」
 サクトが満足そうに口を動かしている。
「良かった?」
 少し顔の赤い母が声を抑えて笑っている。
 二回目のわりしたを煮立てて長ネギと肉、えのきだけとしらたき、豆腐と白菜と春菊を鍋に入れた。火が通ってからテーブルの鍋敷きに下ろし、新しい玉子を用意した。父が帰って来た。父は自分がサーフィンをやっていた頃の話や、今でもサーフィンをしている友人の話をした。父がサーフィンをしていたことも、ワックスのココナッツの香りが苦手なことも初めて聞いた。
「夏までにこっちで部屋を借りるつもりなんです」
 サクトのその言葉も初めて聞いた。

 次の日、バイト先のレストランでランチを食べた。世界チャンピオンの店で食べたマルゲリータより、オーナーが焼いたしらすとコーンのピザのほうがおいしい、とサクトは言った。食べ終わる頃、オーダーしていないクレームブリュレが届いた。金子さんがバーナーで炙ったクレームブリュレの表面が、綺麗な焔を上げる。



スープ、アゲイン。


  毎晩、枕元のドリームキャッチャーを見つめた。確かに悪夢は見ない。そして良い夢も訪れなかった。家の周りの桜が雨で散り、うぐいすが鳴き始めた。つばめが道路を飛び交い、海に繋がる小さな川辺に蛍が舞う。霞に煙る富士山は、まだ雪の残る姿を海の上に浮かべていた。毎朝、波の音が響くビーチを歩いた。いつだってサクトの姿はなかった。

 四月最後の土曜日。営業終了後の店の二階でピザを食べていると、ナギがグラスを持って立ち上がった。
「ソムリエ資格、合格しました!」
 そして、シンジも立ち上がった。
「来月いっぱいで店を辞める。ナギと一緒にナポリに行くんだ」
「――おめでとう!」
 スタッフたちが、それぞれのグラスを掲げる。
「どれくらい向こうにいるの?」
「一年だよ。オーナーがいた店で働くの」
「水くせぇじゃん。やっぱ付き合ってたんだ」
 シンジはユウヤたちと同じ卓袱台で話し始めた。ナギはワインが入ったグラスを持ったまま、アミと私の間に座り込んだ。
「アミが、アキラの新しいパパと暮らせますように!」
「はあ? 結婚はもういいよ」
「ミウが、彼氏と一緒にサーフィンできますように!」
「私、泳げないんだよね」
「まじかあ!」
 ナギが笑って、私もみんなも笑った。
「泳げなくてもサーフィンはできるよ」
 声に振り向くと金子さんと目が合った。私も、海と同化できるんだ。

 ゴールデンウィーク前、キッチンとホールに一人ずつ新しいスタッフが入った。
「アッリヴェデルチ!」
 五月末。店の二階で送別会が行われ、ナギとシンジはイタリアに旅立っていった。


『次の連休いつ? 合わせて行くもんで、空けといて』 19:18

 六月。鎌倉のサーフショップで、サクトが働くことになった。サクトは海沿いの旅館に一泊しに来た。一日目は新しい職場のミーティング、二日目は賃貸物件の内覧。候補は三件とも私の家の近くだった。
「ショップの近くにはなかったの?」
「あるんじゃねぇ? ミウの店の近くが良かったもんで」
 なんで? 動きかけた唇が止まった。
「一緒に住まん?」
「住む」

 二人で決めた部屋はレストランまで徒歩十分、サーフショップまで車で二十分の場所にある、アパートの一階の角部屋だった。白っぽいフローリングの、犬と暮らせる部屋。
 夏物のワードローブやキャップが仕舞われたチェスト。雑誌やDVD。次の週、部屋の契約に来たサクトが、家に荷物を降ろして行った。家電と家具を見に行って、引越し当日に部屋に配送されるように手配する。ひと月程の間、荷物を預かることを快諾してくれた両親は、同棲の話になると顔を渋らせた。引越しが済んで、落ち着いてから話し合おうと言う。心配ばかりかけてきた両親に逆らって、家を出たくない。話が上手く行くようにドリームキャッチャーに祈った。


 七月。サクトが引越してくる日が明日に迫った日曜日の夜、両親が初めてレストランに来た。
「いらっしゃいませ」
 ワインのオーダーはキャンティ・クラシコ。両手でボトルを持って、ラベルを確認してもらう。そして苦手だった抜栓をする。先月まで金子さんかナギにしてもらっていたけれど、もう大丈夫だ。母の右後ろに立つ。ラベルが上になるように、右手でボトルの下部を持ち、グラスに注ぐ。外回りにボトルを回転させて、雫を絡め取る。後ろにしていた左腕のトーションを、ボトルの上部に当てて引き起こす。父のグラスにも、深いルビー色の飲み物を注いだ。
「俺が行きたかったのに」
「いいから」
 デシャップに上がった二枚のスープを、両親のテーブルに運んだ。

 家に帰ったとき、二人はまだ起きていた。ワイングラスとボトルが、ローテーブルに載っている。
「おかえり。お疲れさま。九月から社員になるんだってね」
「オーナーに聞いたの?」
「ううん。ソムリエさんが言ってた」
「あの人、見た目と違って優しいんだよ」
「オーナーも魅力的だし、いい店だな」
「うん。キャッシャーにいたのがアミ。アミには、よく仕事のこととか相談に乗ってもらってて。でも、サクトに会ってなかったら、あの店で働いてなかったと思う」
 ほかのスタッフと自分を比べて落ち込んだり、本当にやりたい仕事なのか悩んだりもした。それでも、サーバーとして笑顔でいることに、ずっと救われてきた。
「明日、泊まる?」
「いいの……?」
「まずは何回か泊まりに行ってみて、それから一緒に住むようにしたらいいんじゃない? 明日はサクトくんを助けてあげてね」
「ありがとう、お母さん。お父さん」
 
 サクトは朝の九時過ぎに家に着いた。ルーイも一緒だ。不動産屋に鍵を取りに行き、荷物を新居に降ろした。エアコンの取り付け、冷蔵庫や洗濯機の搬入、ガスの開栓の立会い、と慌ただしく時間が過ぎていく。サクトがオーディオをセットした。地元のコミュニティFM、78.9MHzに合わせると落ち着いたジャズが流れる。お昼はレストランに行って、帰り道の花屋でベンジャミンを選んだ。2LDKのもう一つの部屋は、サーフィンの道具で溢れていた。


 九月最後の月曜日。サクトの部屋のドアを開ける。両肩に下げてきた荷物を下ろして、ケージからルーイを出した。部屋の掃除。買い出し。ずっとサクトのサーフィンを見ていない。今もサクトは離れた海で波に乗っている。ルーイと一緒にサクトの帰りを待った。
 私は二十歳になり正社員になった。初めてレストランのフロアに立ってから、一年が経っていた。今日は午後から、私の荷物をサクトの車で運ぶ予定だった。返事は来ないと思ったけれど「ピザを作ってる」とLINEした。しらすを載せて焼くだけに仕上げてサクトを待つ。LINEもサクトも帰って来なかった。
 サクトには波とボードさえあれば、他のことはそんなに必要ないのかもしれない。手持ち無沙汰に作りかけの昼ごはんの写真を撮る。LINEの友だちをスクロールしていて、ユリさんの名前で指を止めた。ユリさんに言わせると、サクトは『ようけしゃべる』のだそうだ。部屋に二人で居るときのサクトは、どちらかというと無口だった。
『今は照れとるのかもしれんね。そのうちうるさいくらいになると思うよー』
 ルーイを連れてビーチに向かう。強い風がブラウスの裾をはためかせた。
「よく会いますね」
 フレンチブルを連れた男の人が、片手で髪を押さえている。
「そこのカフェ、犬も一緒に入れるみたいですね」
「知らない」
 ウェーブがかかった髪を風に放して、男の人は「行ってみる?」と、ゆっくり微笑んだ。
「人を、待ってるから」
 座っているルーイの隣に腰を下ろした。目の前には空と海だけが広がっていた。

「彼氏と喧嘩でもした?」

 水平線から振り返る。
「ここにいると思った」
 少しはにかんだサクトの笑顔。飛び込んだ私を受け止める腕は陽に灼かれ、胸からは微かに波の匂いがした。
「一緒に帰ろうぜ」
 ルーイが嬉しそうに吠えた。今日から私たちの家は同じだ。


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illustration by 鳶とピーチさま


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