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「人のため」は誰のため?

今日は、「人の為」とはどういうことなのかについて私の考えを書く予定です。というのも、私は高校生なのですが、今日学校で担任の先生に、

君たちはもっと、人の為に生きなさい、最近みんな他人のことを考えてなさすぎる、僕はこのクラスを良いクラスにしたいんだ!!

という趣旨の説教を受けまして、思ったことがあるからです。説教後に、「はいっ!異議あり!!」とでも言えれば、カッコいいのだと思いますが、ビビリなもので、ここでその時感じた違和感を記しておきたいと思った所存です。

お説教の内容は、かなり極端な「人の為」至上主義でした。先生に言わせれば、遅刻がいけないのは、「時間通りに来ている人の為」なんだそうです。「時間通りに来ている人」を「どうして?私は時間通りに来て頑張ってるのに、、」という不快な気持ちにさせるから遅刻者は良くないんだそうです。また、「先生の話を聞かない人」は何がいけないのかというと、「話を真面目に聞いている人」に「私はこんなに真面目に話を聞いてるのに」という気持ちにさせるから駄目なのだそうです。。。まず、こんなこと思っている生徒いないと思います。それに、もしそう思っている人がいたとして、それは、自分と他人は別の人間であることがわかっておらず、他人のことを自分の尺度でしかみていないその人の問題じゃないですかね。じゃあ、その理論でいけば、私たちがものを買うときにお金を払うのは「ちゃんとお金を払っている人」に「私は頑張って払っているのに」という気持ちにさせない為なんですかね。そんなモチベーションでお金払っている人は少ないんじゃないかと思います。というか、本質はそこじゃないですよね。

はっきり言って馬鹿馬鹿しい。

私は、「人の為に生きる」とか「自己犠牲」とか、全くいいものだとも美しいものだとも思っていません。場合によっては、それらのものは傲慢であるとすら感じています。私の考えでは、「人の為」というのは必ず同時に「自分のため」でもあると思います。なので「人の為に」とか「自己犠牲」という言葉はその部分を見過ごしている気がして好きではありません。その言葉を使うことであたかも、「私が誰かのためにやってあげてる!私って偉い!」みたいな傲慢状態に陥りやすいと思います。「いや、好きでやってるんでしょ?」と言いたくなってしまいます。私は今まで、確かに表面上は自分に損があって、自己犠牲のように見えるようなことをやったことが多々あります。しかしそれが本当に、「相手のため」だけだったことはないです。自分が難しい局面を体験してみたかったり、そのような状態を経験したかったから、選んでいるだけなのです。「人の為」というのは結局は、苦しみを経験してみたいとか、人の為に働くことで自分に価値を見出している、など、どこかに「自分のため」の選択であると思います。また「誰かのため」というのはそれをやられる相手からしたら、「頼んでないんだけど」という感じかもしれないです。本当に相手のためになっているのかというのは相手にしかわからないことであり、勝手にそれがその人のためだと予想してしている時点で「人の為」が「人の為」かはわかりません。ほっといてくれと思っているかもしれないですよね。もちろんそうでないケースもあると思いますが。と、まあこんな感じで「人の為」とかそんなおこがましい言葉嫌いなので今日のはなしは理解できないですね。

一番クールなのは、私がなりたいと思うのは、人の為とも取れるようなことをして、何かに感謝されても、「私もあなたと同じだけ、多くの喜びや学びを得られました。こちらこそありがとう。」と言うような大人です。カッケーーー

もちろんこれらも私一個人の意見にすぎず、絶対的なものなんかでは絶対にないのですが。

=番外編=
最後に、私が今日の説教に関して、問題提起したいことを書いていきます。

① 世界の確実な真実とは言いがたく、一つの考えでしかないもの(=人のために動くのは良いこと)を、自分の生徒に押し付けていると思います。もちろん、先生がどんなクラスにしたいかというビジョンを持っている、それを生徒に伝える、というのは何も悪くないと思います。問題なのは、それをあたかも世界の絶対的な真実かのように思い込み、疑っていないところです。自分の世界しか見ていないのです。自分の世界での真実(=自分が信じている考えや意見)こそが世界の真実であるという勘違いは、傲慢かつ自分勝手極まりないのです。生徒に「自分勝手だ」と言っていましたが、「人のために働くことは良いことだ」という自分の一意見を自分のクラス全体、生徒一人一人の多様性の息づくひとつのコミュニティーに押し付けるのは、そちらこそ自分勝手です。

② 人には皆、言論の自由というものがありますから、何を発信しようとその人の自由だと思っています。しかし、今日あれだけクラスで訴えてらっしゃった、「人のことを考えて、人のために行動しなさい」というのは、ちゃんと自分の中で検証した、洗練された、自分の骨となり、血と成り肉となっている考えなのでしょうか。私には、きっと世の中で言われている、聞こえのいいものを自分の中でそれが正しいのか検証することもなく、鵜呑みにして、正義感いっぱいに生徒にそれを振りかざしているだけに見えました。それが悪いことだとも別に思いませんが、それで洗練された教育者になれるのだろうか。

③ このクラスをいいクラスにしたいというのは先生のエゴに過ぎず、先生の自分勝手です。それを生徒が望んでいるのか考えてませんでした。結局、自分のことしか考えていない。また、みんなが人のために生きることが良いクラスにすることにつながるというのも先生の独自理論にすぎません。確かにそれは正しいことを言っているかもしれません。その方が良いクラスになるかもしれません。しかし、ここで最も大切なことは何が正しいかではなく、それはクラスの、生徒の人の意見なのかということです。自分のクラスの生徒が自分の描いているビジョン通りに動かなければ怒鳴るのですか?何か問題が起きていたなら別ですが、生徒同士とてもうまくいっていて、何も問題は起きていませんでした。これも先生の自分勝手です。

今度は学校の先生について一つ、書いてみようかと思います。気分(波動)が変わったらやっぱり書かないかも。

今日は少し後味のスッキリしない記事になってしまいましたが、書いちゃったので投稿します(笑)自分の中でイラついたままに書いてしまっているからだと思います。イラついたことも悲しいことも苦しいことも一回中性にしてから書かないと、読む人にまでその悪い感情飛んじゃいますよね。まあ、風呂に塩入れればすごい浄化になりますから、もしそうなったら、それで対処お願いします。(いつもは、これでも一応、光とか希望を最後に見出せるように考えてるんですよw)

Have a lovely, wonderful day !!! 


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