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許せる範囲、許せる程度

インドで知り合い、大切で尊敬する友人がわざわざ来てくれた。
ともにashtangayogaを行う仲間。
せっかく来てくれたので、わが家へ泊っていただくことに。

夜帰宅して、お茶請けを挟んでおしゃべり。
この友人は、聞いていると自分には真似できないような人生を歩んでおり、それでいて明るく度量が広い。

この日は、あるグループから仲間はずれにされた知人(以下、彼女)がいた話をきいた。
彼女はそれまでの言動がきつかったようで、友人も距離を置いていた。
その彼女が今までいたグループと一緒に行動できず独りぼっちになり、連絡がきて話をしたと。
その際に、友人はそれまでの彼女の言動について感じていたことを話し、彼女はしゅんとして反省していたらしい。
友人はそれを見て、「これから(きつい言動を)しないなら、まあいいよ」と許したと。

他にも、自分だったら絶縁するような人を避けることはせず、時に敢えて関係を続けていたりする。
その際も相手の話を聞いて、強く否定することなくうんうんと頷いている様子。

じぶんだったら秒で着拒、絶対許さないと思う。
どうしてこんなことができるんだろう。

そして、この話を友人の周りに話すと、いつの間にか怒り出す人もいると。
友人はこのことに心を痛めていた。
どうして怒るのか、自分に何か欠けていて相手を怒らせているのか、と。

自分も最初話を聞いた時に、「早く絶縁したら?」「その人またやる可能性高くない?」と思った。
縁を切るように助言しようとした。

しかし、友人の続く言葉で思い直した。
「世の中、誰も許さなかったらその人はどうなるだろうか。
誰かが許してあげないと、ずっとそのままになってしまう。
それなら、自分が許す人になってもいい」と。

とんでもない役割を買って出ていると感じた。

人を許すというのは、非常にエネルギーが要る。
それまでの自分の思いを手放す、湧き上がる怒りを抑えて浄化する忍耐力。
また何かされるかもしれないという不安と恐怖に打ち勝つ胆力。
そして、その人が再度同じ言動を取ったときの絶望感と被った被害への対処。

それでも、その道を選ぶという彼女の精神性に尊敬の念を抱くと同時に、こうはなれないという降伏感。

彼女は、人への許容範囲、許容度が普通の人よりだいぶん広いのだと思う。

許容範囲は、「この人なら」という受け入れる輪っかの広さ。
人によって範囲がちがう。
家族だけ、恋人だけ、友人だけ、日本人だけ、etc.
人を自分がつけたラベルで区別して、そこまでは許せる。
「それ以外」は自分と関係ない、時々「敵」認定。

許容度は、相手がどれぐらいのことをしても見守る、許すことができるか。
完璧じゃないと、「こんな人と思わなかった」となるかもしれない。
多少悪口を言われても、「まあそんなところもあるよね」と言えるか。
自分の中では、イラッとするのが何パーセント、というイメージ。
一発アウトもあれば、徐々にたまることもある。
自分はかなり許容度が低い自覚がある。
(自分の中のイラッとポイントを探り、許容度を高くしていきたい所存)

彼女の話を聞いていると、許容度がとくに高く、「それそうとうダメージ受けてない?」と思うこともしょうがないと許している。

話を聞いて怒る人は、話者が大切であり、その人が傷つくことが悲しい。
傷ついてほしくないから離れるようにアドバイスするが、敢えて火の中に飛び込んでいくのでやるせなさといらだちを覚えるのではないかと推測した。
実際に彼女の話を聞いて、自分の感覚と出てきたニーズがこれだった。

仲良くなったのは、彼女のエネルギーと明るさ、人を受け入れる度量が最初だった。
その後、ひたむきさと素直さも知り、さらに好きになった。

彼女は分からないことを嘆いてはいたが、普通の人には計り知れない許容範囲・許容度の人であるが故だと思う。
自分としては、彼女を尊敬すると共に、そのままでいていいよと近くにいたいと願う。
Ashtangayogaでつながる人は多くないが、このような精神性の高い友人を持てることを誇りに思う。
(āsanaだけじゃない人もいるよ、という意味で)
そうして、近くにいて、自分も少しでも真似できればいいなと思う。


後日ゆっくり考えて、もうひとつ、ありそうな理由も思いついた。
こちらは話を聞く人のエゴがちょっと入っている。
せっかくアドバイスしたのに聞いてくれないという、影響を及ぼせなかったいらだちもあるのではないだろうか?
「アドバイス」は、諸刃の剣であると思う。
それは今回の本題ではないと思うので、また別の機会に。

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