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小さいこと、大きいこと。

前回はこちら。

3/13〜19

今週で今年度の仕事が終わった。1年生から見続けた子が卒業したり、最後まで補習をやったりしたけど、無事に終えることができた。
学年末テストが終わってからは、自分が高校の時みたいに来年度やることを続ける(○年生0学期的なやつ)のではなく、正直に言えば消化試合みたいなところがあるが、無駄にはできないから来年度の内容を解説するなどした。
最後の授業の時には、「こうしてよ!」なんて全く言ってもないのに、黒板に卒業式の日のごとく、自分の名前と感謝の言葉をでっかく書いてくれたクラスもあった。自分の反応を見たいのはわかってるし、半分ふざけてるよなーと思いつつも、こうやって書かれるとやっぱり嬉しかった。

それから、本当だったら今日、企画していたイベントを開催する予定だった。5年くらい前に、学生時代に知り合った人がやっていたのを見て、実際に参加して、「ああいう子どもたちが楽しめる場を地元で作りたい」と思い、2年半前に一番最初をやってから、2回目を2年前の3月にやろうとして中止。流れに流れて「できる…できるんだ…!」と思えば中止と、悔しいったらありゃしない。
前にも書いたけど、集まってくれた人と「一緒にやる」ことができなかったことが一番悔しい。自分のやりたいことに乗っかってくれて、それなら一緒にいい思いがしたい。誰かを排除して自分だけがいい思いするとか、そのための駒として思うなんて絶対にやっちゃダメ。自分が駒だと思うのは自分は仕事でよくやるからいいと思うが。

そんな感じでいろいろあって、先週末あった話をすると、昨年末に地元の行事にボランティアで参加したご縁で、地元のボランティア団体に関わることになり、それから初めてのイベントがあった。昔からいると思しき方々や、親子で参加したりする方もいた(案の定、同世代はいない)。
そこにいた幼稚園くらいの子に「遊ぼうよ」とせがまれたり、その子の親御さんと仕事の話や学校の話をしたり、町のこととかどうとかと、これまで全く関わることのなかった属性の人と関わるいい機会になった。

今日まであったことを整理すると、「楽しい場」に行き着くんだなと思った。月曜に知り合いの学生が所属している管弦楽団の演奏会に足を運んだのだけど、お礼を伝えたら「すごくいいホールだったので、演奏しててとても気持ちよかったです(要約)」と感想を聞けた。そういう場ってどう生まれるのか、その子の場合は会場のホールがとてもいい場所だったというのもあるが、普段の授業や子どもが関わることだとどうなんだろうか。
それこそ、「楽しかった、またこの場にいたい」と思ってもらうことが一番大事なんじゃないか。授業を受けていて、この時間が退屈、苦痛に思うのって楽しい、面白い感情が出てこなかったからなんじゃないか。一緒に何かすることが楽しいと思える人、新たにできることが増えることが楽しい、という人、そこは千差万別であるけど、そういう感情が自然と出てくるようなことを、これからはやっていきたい。

となると、「〇〇は自分が育てた」だの「あれは俺がやった」だの、自分で手柄を誇ることって、そこにいた相手がその人自身の感情に突き動かされて自発的に行動をとった結果でしかないから、すごく空虚に思えるし、小さいことだなと思えてくる。その人の成したことを、あたかも自分がやったかのように言うなんて、自分にはできない。嘘になるし。あえて言うなら、「彼らのおかげで、これからも今やってることを続けられます」だろうか。

先週に引き続きになるが、プロレスラーの内藤哲也さんは、ある番組(バレバレだけどw)で、こう言っている。彼の本とか動画とか見ていると、すごく元気と勇気をもらえるんですよ。

お客様熱狂してるでしょ
勝った負けた
そんな小さいことで
俺らこのプロレスしてないですから

自分も今の仕事で、生徒たちの成績はどうしてもついてしまうが、彼らがどういう努力をしたかを注意深く見るようにしているし、以前から変わったことがあれば、それに気づいて反応するようにしている。目に見える結果はもちろん大事だけど、そこに行き着く過程でいい循環を生み出さないことには、結果につながらない。その過程には、「面白い」「楽しい」「嬉しい」といったプラスの感情が付随するのは必要条件のような気がする。自分がやったとかどうとかはどうでもいい、一緒になって感情を共有できるかが一番大きいんだと思う。

「プラスの感情」を、そこにいる全員が持てる場を作る。それが5年目のキーワードになりそうだ。

(おまけ)以前、漫画家のこしのりょう先生に、クラウドファンディングのリターンで、僕自身の漫画を描いていただいたことを思い出したので貼っておきます。

これまでの振り返りはこちら。


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