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39|虐待に終わりはない

「どうしたら虐待を終わらせられると思う?」

「虐待に終わりはないよ」

それは、インタビュー中、実際に虐待を受けていた彼女の口から出た言葉だった。


この春、晴れて大学で教育を学ぶことになった私は、好きなことを学べる毎日に大きな充実感を抱いていた。
一方で、教育を学ぶ課程というものは、決して楽しいことだけではないことを知った。
多くの社会問題、特に子どもに関連することについて知り、考えなければならなかった。

今私が受けている授業。
それぞれの班がひとつの社会問題をテーマに半期をかけて調べ、まとめるのだが、たまたまうちの班は、『虐待』というテーマになった。

はじめに出された課題は、テーマについてのイメージを身近な人から聞き取ることだった。

「虐待とはどのようなイメージですか?」
友だち数人に協力してもらった。

そのうちのひとりは、高校からの友だちだった。
彼女(とここでは呼ぶことにする)は虐待を受けていたひとりであることを私も知っており、そのうえで声をかけたところ、「あんなことでよければいくらでも話すよ!笑」と快く承諾してくれたのであった。


「警察呼んだこと、あるよ」

私が彼女と出会ったのは、高校一年生の頃だった。
クラスが同じだった私たちは、部活がない放課後、一緒に課題をしていた。

課題をしながらの何気ない会話。
当時、親との関係が激悪(過去参照)だった私は、「あ〜家に帰りたくないな」と、ぽつりとつぶやいた。
彼女は「私も。」と言った。
そして少しの会話のあと、彼女は続けてこんなことをぽつりと零したのであった。
「私、警察呼んだこと、あるよ」と。

「え??」と思わず口に出た私の反応は、一般的なものであっただろう。

彼女は、お父さんから暴力を受けていることを明かしてくれた。
今は直接的な暴力自体は少なくなったけど、ガラス破片の切り傷の痕、お父さんに殴られたお母さんが一時的に記憶を無くしたまま出席することになった入学式、階段の影に隠れて怒鳴り声を録音したこと、そして警察を呼んだ日。
「この人を連れて行ってください」と彼女は言ったという。


いくらでも話すよ

当時の私は必死で、どうにかしたいと思った。
でも、無理だった。
他人は介入できないから苦しみ続ける、それが虐待だと知った。

これらの話は、私が彼女と話をしたその日から今まで、何年もかけて聞いたことである。
仲良くなった私たちが日々を過ごす中で、少しずつ少しずつ自分のことも話せるようになったうちの、ひとつであり、今では笑って話せることになった。

今思えば、こうしてひたすら時間を共にすることが一番必要なことであり、私ができた唯一のことだと感じる。
きっかけはそんなことでも、彼女と仲良くなれたことが純粋に今も嬉しい。

そして彼女は今回のインタビューの話を出したとき、快く承諾してくれたのだった。「いくらでも話すよ!」と。


「虐待とは」

いくつかの質問をした。
彼女は課題をやりながら答えてくれた。

「虐待とはなんだと思う?」
「なんだと思う?か……ん〜日常?笑」

「虐待はどうして起こるんだろうか」
「上に立ちたいんだろうね。あの人の過去とか職場のこととか知らんけど、そういうことも関わってるんだと思う。でもそれを悪い事だと本人は自覚してない。」

「どういうところが問題?」
「一生残り続けること。暴力はなくなっても記憶は残り続ける。」

「どうしたら虐待を終わらせられると思う?」
「虐待に終わりはないよ」


最後に。

虐待とはなんだろうか。

暴力だけが虐待でないことは、周知されてきた。
むしろ、精神的な傷を負うこと自体が虐待で、暴力が伴うかどうかだと私は思った。

誰もが知ってるように虐待は悪いことでしかなく、止められるなら止めたいし、どうにかできるならしたい。
でも、本当に目の前にした時、自分にできることなんてないのかもしれない。机上の空論は通用しない。私も未だに何ができたのか分からない。記憶を思い出させることで、逆に辛くさせたこともあったと思う。

それでも話してくれてありがとう。
教えてくれて、知らせてくれてありがとう。


心の傷は、深く深く残る。
一度傷つけられたものが元通り戻ることはない。



*この記事の公開においては彼女の承諾を得ております。個人情報が漏れない程度の話を、私と彼女の記録としてここに残します。

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