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「白い薔薇の淵まで」

白い薔薇の花言葉
「innocence and purity(純潔と純粋)」「I am worthy of you(私はあなたにふさわしい)」「reverence(深い尊敬)」

バラの花言葉 - e恋愛名言集

クーチと塁が愛し合ったあとには、クーチの脳髄の裏側に白い薔薇の花が咲く。純粋な愛の証拠であるその表現を、とてもいとしく感じた。

この小説を知ったきっかけは、紬さん(@sunrce)という方がTwitterに投稿していた紹介文だった。

「女の子同士の恋愛のお話なのだけれど、脆くて触れたら怪我をしてしまうガラスの破片のような性愛のお話。物語の節目節目で、記憶しておきたい言葉が綴られていて頭がパンクしそうになりました。深夜に読むことをおすすめします。
『塁を失うのではないかという喪失の予感に苦しめられるようになったのは、その夜からだった。いや、違う。本当はもっと前から、蜜月のさなかから、出会ったときから、いつ消えるともしれない幻を見ているのだと、つねにおびえていたような気がする。』」

紬「私がいのちの次に大切にしている本たち、これからもずっとずっと愛してやまない本たちです」 

わたしはこの文章に強くこころを惹かれた。同性愛に興味をもっていたのもひとつの理由だし、愛の間に溺れていて、でもたしかに生きている言葉を受け止めたいとおもった。
学校の図書館に置いてあることを知って、すぐに手を伸ばした。

しかし、そこに描かれているものは同性愛ではなくて、純粋な愛の形だった。純粋な愛ではなくて、快感だったかもしれない。純粋な快感。
それほど作者の描くエロスは異常なほどの悦楽を表現し、読者を陶酔させた。

クーチ(クーチと呼ぶことは塁以外に許されていないとおもうけど、親しみと簡潔さを求めてクーチと表記させてもらいます。わたしは藍白でクーチはクーチです。)と塁は、いくら離れても離れることはできなかった。許されなかったという方が正しいのかもしれない。それほど、見えない糸で繋がれたふたりの縁は切れることがなかった。その糸と糸の両端が触れ合うと、ふたりはほとんど必ず愛し合った。やがて糸の結びは解けて、もとの糸に戻る。

物語は塁がクーチに書店で話しかけたように、ゲイカップルとクーチの書店での会話からはじまる。
そして、読者は冒頭で塁が28歳で亡くなったことを知る。すなわち、物語がハッピーエンドではないことに気づく。
わたしは、ふたりの愛に終わりがあることを知りながら物語を読み進めなければならなかった。

「闇の中でわたしを打つ滂沱の涙が、ふいに花の香りをさせた。
……それは、薔薇の花だ……
腐りかけの薔薇の匂いだ。
わたしにはわかる。白い薔薇だ。
ああ、塁が泣いているのだ。」

白い薔薇の淵まで/中山可穂

(以降、ネタバレを含みます)




しかし、塁の死因は物語で描かれていなかった。そして、物語はハッピーエンドともとれるのかもしれない、とおもった。

紬さんが「読み終わった後はずっと生活の中でこの小説のことを考えていました。」と綴る意味がよくわかった。

ちょうど直前に桜庭一樹の「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」を読んでいた。この作品と同じように、結末にある主要人物の死だけが冒頭に示され、物語が徐々に結末を追うという形式の作品だ。

大きく違う点は、結末が冒頭と結びつかないところだ。
「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」では、大切な友人の死を乗り越え、主人公が精神的な成長を遂げる、という形で締め括られている。
しかし、この作品では「塁が死んだ」という一点だけがふよふよ浮いていて、そこに辿り着くことなく物語が終わる。43歳となったクーチが、塁の死をどのように乗り越え、ニューヨークに辿り着いたのかは描かれていない。

後味が悪くって、クーチと塁の関係のようだと感じた。作者の描く蜜月も、すべてこの結末のために注がれたものだった。
だとしたら、冒頭の情景は読者に引き返すことを推奨するために用意されたものだったのかもしれない。帰れるものなら。

「薔薇が咲いた。
脳髄の裏側の白い薔薇が、ぱっと咲いた。」

白い薔薇の淵まで/中山可穂


この物語の結末は、大きく欠けてしまっている。まるで、ふたりの愛以外にはなにも表現しなくていいと言っているようなものだとおもった。

だって、物語の鍵を握っているであろう、古巻氏の心情や行動について表現されていないから。
なぜ猫はいなくなったのか、なぜメモ書きの返答をしなかったのか、なぜ自分で探すことなく写真集をクーチに渡したのか、塁の三作目にはなぜ猫の毛が入っていたのか。クーチの新しい住所を知っているのだから、古巻氏とは連絡をとっていたはずなのに、どうして塁のことを話さなかったのか。
あまりにも言葉足らずの結末だった。

塁はなぜ死んだのか。塁の「温泉旅行」の伏線も残されたままだ。そもそも、日本で会おうと置き手紙を置いたのだから、帰ろうとしていたのではなかったか。

終いには、クーチの心情だけは事細かに描かれていたはずなのに、どうして三鷹に向かったのかが描かれていない。本は古巻氏が送ったはずなのに。どうして白い薔薇の淵まで行けると思ったのか。
物語を素直に解釈するならば、クーチは生きており塁は死んだのだから、「白い薔薇の淵まで」行くことは叶わなかったとするほうが都合がいい。しかし、それを描いているのは物語のラストだから、なにか意味があるとしか考えられなかった。

わたしは、クーチがスラム街のホテルで死んでしまったのではないかとおもった。「あの夢」のように。人間は死ぬ瞬間が一番快感を感じられるらしい。
ただし、その可能性はクーチ自身により否定されていた。客観視ができず、盲目で塁に飛び込むクーチのことだから、本当に阿片を吸わされていたなら気づくはずがなかった。

それくらい、左手の親指が物語が終わりに近付いていることを教えてから、スラム街に引き寄せられるまま夢の中へ飛び込んでしまったかのように、物語に実在性がなく感じられた。
ふたりの間で育まれた愛しか残っていなかった。

もしかしたら、塁の2作目の小説がこの「白い薔薇の淵まで」なのかもしれないとおもった。
だとしたら、塁の1作目がどのようなラストを迎えたのか、なおさら気になる。

19歳のわたしには、この解釈を深めるごとに、まるでわたしが阿片を吸わされているような気持ちになる。
みんなはこの結末を理解できたのだろうか。都合が悪くなるとすぐに誰かの意見や同意を求めるのはわたしの悪い癖だ。

わたしなりに解釈をしようと思ったが、積極的な意欲は湧き上がらない。物語の終盤の解釈は古巻氏の行動に大きく左右されるからだ。
わたしのエゴイスティックな考えだが、古巻氏と塁がどのような関係であったとしても、この物語の中で男性という性を認めたくなかった。

いや、それは著者が意図的に描かなかったのではないか。この物語はクーチと塁のふたりの物語であり、古巻氏についての解釈は読者に委ねたのではないか。
もしそうならば、わたしは著者の選択を深く尊重する。そして、この物語の結末の解釈をしないことを、クーチと塁のふたりの愛の記録としてこの物語を解釈する。

「わたしが死ぬ思いで封印した記憶のかさぶたを、鋭利なメスでひとつひとつ丁寧に剥がし、再び傷口を抉り出して鮮血を滴らせてみせるのが塁の仕事だった。その血しぶきの一滴一滴が言葉であり、血溜まりのぬかるみが文章なのだった。やがて執拗に露わにされすぎた傷口は致命傷となり、ひとつの死体ができあがる。その無残な死体のことを塁の世界では文芸作品というのだった。」

白い薔薇の淵まで/中山可穂


(古巻氏の行動について、考察されたブログがありましたので、この場を借りて紹介させていただきます。)

https://blog.goo.ne.jp/kaine1216/e/6a142a447acecc3cf3c6170362d4c37e

「白い薔薇の淵まで」雪とカラス様

『飛び出していった きみは帰らない 重ねた手と手』
鎖那 - 彼女は旅に出る


出会いと別れがそうであるように、愛と死は表裏一体です。この作品に深い敬意を表します。

「帰りたいだろうな、地球に。
帰れるものなら。
帰れるものなら。
帰れるものなら。」

白い薔薇の淵まで/中山可穂

ここまで読んでくれてありがとうございました。Twitter:@EBF_6F7 あります。よかったら仲良くなりましょう

またね。
藍白/2022.12.13


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