1.「母猫」、「ブラックコーヒー」、「傘」

「母猫」
 人々が寝静まった夜に僕は目覚める。お陰で人と会うようなことはほとんど無かったけどある日の散歩中、道端の垣根に潜む身体のすらりとした猫を見つけた。まだ小さい子猫も連れ立っている所を見る限り母親のようだった。彼女はとても美しい毛並みと瞳を持っていた。だが、ところどころ体に切り傷の様な痕があった。それに対し僕に傷はなかったけど、その母猫に近付いていった。彼女は僕に対して恐がるような素振りも全く見せず、顔を綻ばせて震えるように一声だけ鳴いた。それを見た僕は特に笑うこともなく、泣くことも無くその猫をただひたすらに見据え続けていた。

(了)

「ブラックコーヒー」
 父はブラックコーヒーをいつも美味そうに飲んだ。当時中学生だった僕はそんな格好良い父親によく憧れたものだった。日差しが差し込む革張りのソファで父はトーストを齧りながらブラックコーヒーをあおるように飲んだ。たまにそれに母特製の目玉焼きが付くこともあった。僕の父はその朝食的行為にさして興味はなさうだった。彼にとってむしろ関心のいくことは経済や国家間の情勢や僕のテストの点数、部活での活動や美しい母との会話らしかった。
 それからやがて僕は高校にあがると彼女が出来た。とても綺麗な子で優しい子だった。そんな彼女と上手くいっているある朝、僕が父の前でブラックコーヒーを飲んでいたら珍しく彼に声を掛けられた。僕はほんの少しだけカップから顔をあげて父をのぞき見た。
「彼女でも出来たのか、流りゅう?」
 なかなか嬉しそうな声音だった。僕が一生父に勝てないと悟った瞬間だ。僕はもう一度マグカップに口を付けてからゆっくりと父に頷く。口の中で広がったブラックコーヒーの酸味と苦味が、僕を慰めてくれているようなそんな気がした。

(了)

「傘」
 傘を差した一人の男が歩いていた。雨は降っているが、じきに止みそうだった。男はコンビニに入った。適当に買い物しながらレジで会計を済ませ店を出た。むわっとした暖かい空気の塊が男を包んだ。眼鏡が曇り、男はそれを手に取った。拭き終えると、自分の傘が盗まれている事に気付く。傘立てに自分の傘が無いのだ。男はため息を吐いてから店に戻ると、透明のビニール傘を買おうとレジに持っていった。会計を済ませ、店を出ると綺麗な虹が見えた。雨が止んでいるのだ。男はほんの少しだけ笑うと、買った傘を傘立てに突っ込んだ。

(了)

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