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これから

つくづく、自分は創作をしていないと生きられないタイプの人間なのだな、と思う。自分が天才の類ではないことになんかは最初から気付いているし、かといって足りない才能を補えるほどの努力をするのなんて、気が遠くなるような道のりで、何度辞めようと思ったか分からない。書くことが苦しくても辛くても、それでも書き続けてしまうのなら、いっそ、小説家を目指してしまおう、とある時思った。それは、辞めることを諦めた私の、書き続けることを無意味な生産にしないための、ある意味では言い訳だ。

何も、小説で身を立てていこう、などとは思っていない。ただ、生きているうちに、自分の作品が認められて、出来れば商業出版されて、自分と同じような絶望を知っている人に届くような、そんなちっぽけなようで壮大な夢を見ている。

「あらゆる意味でのマイノリティ、社会に順応できない人たち、あるいは順応しようと藻搔いている人たち」のための、物語を書きたいと思っている。もしかしたらそれは、大衆には伝わらない、理解されないような物語なのかもしれない。だけど、誰しも一度は、何かしらの場面で、居心地の悪さだとか、疎外や孤独だとか、理解されない苦しみだとかを感じたことがあるのではないだろうか。全ての場所で受け入れられて、理解されて、共感されて、孤独も感じたこともなく、生きてこられた人間なんて、果たしているのだろうか、と思う。そう考えるのは、私自身が、社会に順応できていない人間だからなのかもしれないけれど。

たぶん、私の物語で救いたいのは、かつての私なのだ。信じていたもの、よすがにしていたものを失って、生きる目的も、自分にとって何が大切だったのかも分からなくなったあの頃の私、あるいは同じ絶望を持った誰かに届くなら、それだけで十分なのだ。救いになんてならなくても、右も左もわからない暗闇にいる誰かに、豆電球の灯りひとつ手渡して、こんな道もあるんだよって、道しるべの一つにでもなれたらいい。

そして、その道しるべが本当に必要な人に届けるという意味では、書籍化するほどのクオリティと面白さ、商業出版の影響力は必要だろうな、と思っている。どれだけいいことが書いてあったとして、面白そうでなければ読みたくないし、知るきっかけがなければ一生出会うこともない。
書籍もネットも物語が溢れかえる今、私の物語がどれだけ必要かと問われれば、たぶんほとんど必要ではないだろう。でも、書き続けるなら、誰かに届いてほしい、と願ってしまうのは、きっと創作する者なら誰しも持っているエゴだ。その自己満足が本当に必要とされるものになる日まで、例えその日が一生やってこないとしても、創ることに囚われた私たちは、創り続けてしまうのだろう。

そういう生きものだから、私は今日も諦めて、物語を綴る。これからも、ずっと。

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