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夢のときの脳の使い方

こんにちは。藍澤誠です。

さっき『アファンタジア』というタイトルの文章を書きました。

その後、急に思い立って「夢を見るときの頭の使い方」をすれば、目をつむっていても思い描けるのではないか、という仮説を思いつき、さっそく検証してみました。

私は夢の中で自分を操れる(夢の中で、ある程度主体的に行動できる→現実の物理に拘束されているので、飛んだりはできない)のですが、そもそも夢自体をほとんど見なくなっているので、夢の見方を忘れてしまっている部分があり、浅い眠りでヘンな夢はたまに見るものの、ノーマルの夢というか、主体的に動けるちゃんとした夢を見てなかったなあと反省。さっそくきちんと寝てみました。

すると・・・あらためて夢はすごいですね。細部まで、目の前の起きているかのようにしっかり見えていました。いろいろキョロキョロしてみたのですが、場面はたぶん渋谷の松濤のとこの坂で(行ったことのある場所なのか、クリエイトされた場所なのか見分けがつかないのですが)、路線バスが走っていて、私はバスのデザインなど注意して観たことなど一度もないのですが、その配色や窓の形などもしっかり確認できました。歩行者も個性を持った状態で何人もいたし、街路樹の幹や葉っぱもどこまでもリアルで。現実と見分けはまったくつきません。

しばらくキョロキョロ見ていたのですが、松濤の道ばたにいても仕方がないので、移動することにして、うっかりすると(力を入れすぎると)起きちゃうので、慎重に起きないようにしながら、ドラゴンクエストのルーラという呪文のように、いきなり場面を転換できるかなと思ったら成功。

目の前を仕事場に換えられて(もちろん夢の中で夢だということがわかる)、そして最初は、アファンタジア状態になりかけた(思い描けない暗闇になりかけた=目が覚めかけた)のですが、自分が夢とアファンタジアを比べるためにそこにいる、という目的意識もちゃんと持てていて、しっかり検証を続行できました。グッジョブ、自分でした。

夢の時とアファンタジアのときは、脳のまったく活性部位が違うことが体感としてわかりました。場所でいうと、あくまでイメージですが、目を閉じても何も思い描けないアファンタジア状態は脳の中央、前の方を使おうとしているとき。夢が駆動しているときは、右側の奥の、さらに奥の方が舞台になっているような感じでした。

起きそうになったときには、「そこじゃなくてこっちに力を入れて」みたいに、意識の置き所を変えると、いきなり画面が超クリアに。目を開けているのと変わらないレベルで思い描けました。

夢の中では視力が良くなっています。もちろんフルカラーです。秩序もととのっていて、絵的におかしいところもなくて、生徒の笑い方や仕草もきちんと再現できていました。

自宅の場面では、妻がキッチンに立つ姿が、きちんと細部まで、顔や着ているものまで確認できました(ダジャレじゃないです)。

この太陽光の加減からして午前11時30分くらいかなとか、そのときの季節などは、意識を向けるとちゃんと確認できます。視点は自由自在ではなく、一人称視点なのですが、少し高さを引き上げることはできました。

ここまでクリアということはつまり、一つ一つの物を、順番に脳内に思い描いているのではなく、脳が日常的にアーカイブしている造り出している世界にまるごと委ねるというか、記憶から浮かんだ世界に疑いを持たずに、あるがままに受け入れていくことが、映像再現では大事だとわかりました。

夢の中で試してみたのですが(=夢うつつの状態で試行錯誤してみたのですが)、リンゴ単体をぽっかり思い描くのは依然として不可能で(夢の中でアファンタジアをしているみたいになる)、自分の足で自らキッチンまで行って(立っていた妻の背後を通って)、冷蔵庫の野菜室を開け、そこから取り出したリンゴの様子を観る、つまり、ふつうに脳の中の世界で、現実世界と同じように行動すれば、リンゴを手にとることができ、もちろんそれを細部まで観察することができるのです!

アハ体験です。

そして何かに似ていると思ったら・・・そもそも小説を書く時の頭の使い方と同じでした。気づくのが遅い(笑)。

そしてそして、次にやりたいことまでハッキリと見えました。現実を夢のようにコントロールしながら生きるということです。世界は当たり前だけれど、アクションした通りになるのだから、どこまでもリアルに思い描けばいいんだって。

上手く言えないけれど、これまではこの現実世界を、どこかしらアファンタジアな感じで受け止めていたように思います。つまり世界を暗い、予測不可能なものとしてとらえていたな気がするのです。

こうしている今、誰がどこで、どんな格好で、何を持って、どのように行動しているか(相手の気持ちは推測しない)をリアルに思い描くことができるとしたら、それはすごく発展性のある状態だし、他者に対して自分が取りたいと思える具体的なアクションが、丁寧に脳から検出できる。

自分に限定していうと、どうして今、目の前の世界がこうなっているのかを振り返ることができるし、その因果関係をきちんと追求したり修正したりする経験を重ねることで、理想を思い描けるのだと気づきました。

たった今も目を開ければ現実世界は見えるのですが、目の世界とは別に、夢のときの部位を意識しています。キーボードの色や触感を想像したり、肩の凝りや、首の痛み、衣服の重量や温かさ、自分の呼吸などにも意識を少しずつ分散しています。リアルな、生命体として、感覚の集合として自分を再構築するというか。また、現在の一方で、この文章を書き終えたあとにとるべき行動までを、客観的に、一連の物語として想定しています。

夢の中のように呪文ルーラでの移動はできないのですが、パソコンをていねいに閉じ、あとで戻ってきたときに散らかっているという感情にならないようにマウスをととのえ、さっきたたんでおいた上着をはおって、ドアをしずかに開け、開けたとたんに感じる、室内とガレージの温度差を味わいながら階段をおり、どの傘を持っていくか悩み、どうせギリギリで雨の中、車のキーを探すことになるだろうから、あらかじめカギは出して置こう、エンジンをかけると、きっとこんな音がして・・・といったように、感覚と情景をセットで思い描くことができる。こうして書くと、だらだらと時系列になるのですが、瞬時に、全方位に、一挙的に感知できることに気づきました。

さらに現実は夢とは違い、もっともっと主体的に動けるのだから、その途中途中で、自分の表現ができるというか、階段を下りることに表現も何もないんだけれど、階段を少しでもきれいにして生徒を迎えようとか、味気ないこのスペースに何かを置いてみようとか、逆にあそこが散らかっている状態がすごく嫌だから、今度はもっとこの場所を楽しく思い描けるように、光景を作り直していこうとか、ここを拭いた雑巾はどこで乾かすのがベストかとか、感覚と光景をつかさどる脳の夢のステージ部位にアーカイブしようと思うと、次々やりたいことが思い浮かんできます

というわけで、世界の見え方が、一瞬にして、すごく大きく変化したように感じている中です。そしていつものことなのですが、こういうのは一般的に、発達の、ごく初期で行われるような気がして(笑)、ドンマイ自分、遅ればせながらこの世界に生きさせてもらおうぜ、という感じなのでした。

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