カトルとタタン_3_

アップルパイが逃げなかった話(もしくは、ちょっとした小話)

「もうアップルパイは作らないでね」
 
それが、おやつを作るときの決まり文句になった。
汗までかいているタタンの頬をそっとなでて、私はこう言う。
「大丈夫よ」

きっかけは、リンゴを煮つめていたときに、
タタンに火の番をさせたことだった。
私がいつものカトラリーをどこかにやってしまって、
庭まで探しに行っていたからだ。

タタンは、何度も鍋をのぞいては、リンゴを焦がしてしまわないように気をつけていた。タタンは、言いつけをしっかり守る子だから。
 
あるときタタンは、熱々の鍋の中で、
リンゴたちがそっと動いたのを見つけた。
リンゴたちは身を寄せ合って、だれにも見つからないように――もちろんタタンは気付いているのだけど――光溢れる世界へと歩み出した。

タタンは、そのリンゴの一つと――そんなもの、リンゴには付いていないはずだけど――目が合ってしまった。
タタンの大きな瞳が、リンゴには悪魔の長の獰猛な瞳に見えたことだろう。リンゴの目は、タタンと目が合った途端に、南極の氷床のように凍りついた。そう、まるで何年も前から企てていた脱走が失敗した奴隷のように。

タタンは、愚かなリンゴたちを止めなかった。
むしろ、うながしたのだ。

タタンは、
自分の運命から逃れようとするリンゴたちに、四つ足を生やした。
リンゴたちは、突如起きた奇跡に目を丸くしたのもつかの間、
鍋の内側を登り出した。
そして、見咎める目がなくなったそのすき間から、
身を躍らせるように抜け出した。
リンゴたちは、生まれ育った世界へ戻ってきたことに涙しながら、
わずかに開いていた窓から逃げ出した。
甘い香りのする脱走は成功したのだ。

後に残されたのは、鍋の縁からに窓枠にかけてできたべとべとの軌跡と、伴侶を失ったパイ生地。そして、部屋のすみでうずくまっているタタン。

戻ってきた私は、
いなくなったリンゴよりも、
小刻みに震えているタタンをまっ先に見つけた。
タタンを抱きしめても、彼の震えはおさまらなかった。
私は、タタンの中で起こっている何かがおさまるのを待った。
その、何かがわからないまま、待ち続けた。
 
しばらく後で、タタンはぽつりと言った。
「僕には、食べてほしくないんだね」
 
それから、週に一度食卓に並んでいたおやつは、姿を消した。
 
タタンはときどき、リンゴが逃げていった道筋を、指でこすりつけている。
拒絶されたことでできた傷を抉って、その痛みを忘れないように。
 
タタンは、じっと見ている私に気付く度に、力なく笑う。
「大丈夫だよ、カトル。大丈夫だよ」

だから、こうしてアップルパイを作っている。
タタンに火の番をさせなくてもいいように、
作り始める前にいつものうっかりは全て点検してある。

今はこうして、タタンじゃなくて私が火の番。
鍋には蓋をしているけど、
ときどき湯気で少しだけ持ち上げられて、かたかたと軽快な音を鳴らす。
そろそろ、リンゴが煮えてきたはず。

ふいに、かたかたと刻まれていたリズムが途切れた。
蓋の端が少しだけ持ち上げられたまま止まっている。
隙間が徐々に広がったかと思うと、
ばたんと大きな音を立てて閉じてしまった。
しばらくすると、また蓋はぐぐぐとゆっくり持ち上げられた。
何の力がそうさせているのかは、すでにタタンから聞いている。

私はそのわずかな隙間から、その力の元へささやいた。

「あなたたちは、タタンが生きているのが気に入らないのね」
 
煮えたはずの鍋の中が、少し冷ややかになる。

「きっと名前が、ううん、どこかが似ているからよね。
 でも、覚えておいてちょうだい。
 タタンはあなたたちとは、少し、ううん、かなり違っているのよ。
 けれど、それはあなたたちを卑下しているわけじゃない。ただ違うだけ。
 『似ている』っていうのは、
 ただ『似ている』だけであって、『同じ』ではないの。
 タタンは、あなたたちのこと大好きよ。
 その『好き』の表し方が、あなたたちの望んでいる形じゃなくても。
 それだけは、忘れないでね」

私はこれ以上鍋が冷めてしまわないように、蓋をぐっと押さえつけた。
でも、その必要はなかったのかもしれない。
手を放すと、蓋はまたかたかたと軽快なリズムを鳴らし始めた。
少しだけ蓋をずらすと、砂糖を焦がした甘い香りが立ち上った。

「タタン、おいで」
タタンは玩んでいたその手を止めて、こっちへやって来た。
おやつのときのタタンは、いつもうれしそう。
だから、それは今日も変わらないままでいたい。

「今日のおやつは?」
「アップルパイよ」

タタンは、私が何を言っているのかわからず、息を止めたまま凍りついた。
「タタン、落ち着いて」
タタンの背中をさすりながら、私は息を吸うようにうながした。
タタンはひどくむせながら、じっと私を見上げた。

「カトル、」
私は、タタンの頭をそっとなでる。
私は、
タタンを悲しみの底に沈めるために、こんなことをしたわけじゃない。
「タタン、大丈夫よ。大丈夫って私は言ったわ。
 だから、この子たちがここにいるのも、 大丈夫ってことよ」
 
オーブンから取り出したばかりのアップルパイにナイフを入れると、
真っ白な湯気がもうもうと立ち上った。
その湯気にからめとられるように、タタンはふらふらと席に着いた。
パイの中からごろごろとこぼれそうなリンゴを前にして、
タタンはごくんとつばを飲みこむ。
 
大丈夫よ、タタン。
私は声に出さずに言う。
あなたに、垢のついた思い出は抱えさせたくないの。
無かったことにできないのなら、せめてその思い出をきれいに洗いたいの。

「この子たちは、
 あなたに食べてもらいたいって言ってたから、そうしたの。
 本当の本当よ。」

タタンは、大きな目をさらに丸くした。
それから、大きな笑みをこぼした 

タタンはさっそくフォークをつかむと、大きな一切れにかぶりついた。
ぱりぱりと砕かれるパイと、
煮つめたリンゴから溢れる果汁が、
小さな口の中で混ざり合う。
取っても取っても口の周りにつく食べかすに、
おいしいおいしいとくり返すタタンに、
私は幸福を感じる。
 
この子の幸せが、きれいなまま守られますように。
こわいものが忍びこんで、悲しみが溢れ出さないように。

タタンはぺろりと三切れも食べ終えると、
庭の方を向いて、みーみーみーと三回鳴いた。

「なあにそれ?」
「『せみ』だよ。『せみ』の鳴き声」
「新しい生きもの?」
「虫だよ」
「虫……」
「こわくないよ。大丈夫」
「そう。じゃあ、また見せてね」
「カトルにはこわいもの見せないよ。だから、大丈夫だよ」

タタンは笑いながら『せみ』がどんなものか、陽が傾くまで話してくれた。私も笑いながら、タタンの頭をなでる。

はりぼての『大丈夫』を言い合って、私たちは幸福を分け合う。
タタン、あなたが幸せでいられるのなら、それだけで。

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