おまけ

養老孟司先生を読んで思うこと

実は2014年にこの記事「養老孟司先生を読んで思うこと」を書いていました。”おまけ”として、ここに公開します。

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養老孟司先生の本を5冊ほど読みました。もともと、共に会社で働いていた あるアナウンサーの方が紹介していたことがきっかけで、彼に興味を持ったのでした。

それは主に子育ての捉え方について。
子供は自然、だから手入れをするのだ、育児は手入れという考え方はわたしを驚かせました。

また、こうすればこうなる(私流の言葉でいえば、次々に目標を定めて緩めることなく働くこと)と明確な思考経路をもって生きることの弊害は都市化から来ており、隙間を作ることをやめさせ、忙しくさせるのだ、という提言もまたわたしの頭の整理に役立ちました。

わたしはいま、とても混乱してますし、心の奥底では沈黙して考えることを大事にしようと思っています。アウトプットではなく、それは自分を遠くから観察することです。沈黙とは己の内なる声に耳を傾けることです。わたしがかつて目指して来たものは社会のなるたけ中心に暮らし、金を稼ぎ、自立し、この社会に足跡を残すことでした。それはすべて都市化の上に成り立っていました。

けれども、都市化がわたしに「暇」をなくさせ、隙間の期間は作ってはならぬと急がせ、それを達成して初めて自分には価値があるのだと呪いをかけ、わたしはぼうっとすることがいけないことなのだと思うようになり、何かをいつも学んでいなくては前進していなくては不安になるようになり、つまりはそのままの自分(何もしていない空っぽの自分)を愛することをいつの間にかやめさせてきたのではないかと、養老先生の本を何冊か読んでそう思ったのです。それが育児をしているわたしを時々暗い闇に落としているのではないかと思い至るようになりました。

わたしにとって育児は忙しいけれども、暇でもあります。というのは、わたしの思考の早さに子供達のそれは当たり前ですが追いつかず、わたしは常に歩調を緩める側になるからです。心に余裕があるときはいい、けれども、それがないときや、夫の仕事での話を聞いていると、まるでわたしは育児をしていて何かを失った気になるのです。得ていると思いたいのに、失っているという喪失感がわたしを覆う。そのとき、言葉にしがたい孤独を感じます。夫のスピードと子供たちのスピードはあまりに違い、彼らはいちどきにわたしにモノを言ってきます、わたしは彼らと同時に話すとき、いいようのないストレスを感じます。かつてシングルマザー状態だったとき、わたしは職場と家庭でスピードの違いを感じていましたが(2種類のスピードのなかで暮らしていた)、今は家庭のなかで子供と夫という2種類のスピードをうまく捌いていかねばならず(家庭と社会ではもちろんスピードは違うので、3種類のスピードのなかで今は暮らしている)それはわたしを居心地のいい状態には決してさせてはくれません。

結論はありませんし、出ていません。上記したことを考え続けている状態です。そのままの自分を愛することを確実に遠ざけている"都市化"という思考回路は、長年わたしの脳に住み着き今も住み続けているようなので、これを追い出せるのかも追い出したいのかもわかりません。ただわたしは、たぶん"都市化"(次々に目標を定め走っていなければ自分を認められない症候群)のなかで大事なものを失ったのは間違いないと思います。

本当は、そのままの自分とは空っぽで、空っぽだからこそ その隙間に何かがするりと入ってこれるはずなのに、それをわたしは長年してこなかったんだなと受け止めています。それができていれば、子供たちの今を育児をもっと楽しめるのに、と思います。

また考えがまとまったら文章におこしたいと思います。

※これは、2014年の育児休業中に書いたもので、ワンオペレーションのときに書いたものではありませんが、ひとつだけぽつんとあった日記でしたので、このマガジン「AM9:54」に追記しました。

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