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ナイスつっこみ

仕事で疲れて帰ってきて毎日台所に立ってごはんを作り続けることにあまりに疲れた、ということと、たまたま読んでいた本が綿矢りさの本で、その本の中に登場する母が60歳の区切りにごはん作りをやめたというエピソードをみたことが引き金となって、「ごはん作りは今日を最後にして明日から分担制にしたい」と子供たちに申し出た。ママは会社に、あなたたちは保育園に。これは互いに”仕事”であるから平等。しかし帰宅後、ママはごはん作りに洗濯に掃除に、一方あなた達は専らYouTubeをみる、これでは平等ではないので、家の中の仕事を分担するのはなかなかいい提案だと思うけどどう?と言ってみた。もちろん、我が家の子供たちは5歳と3歳で、料理の仕込みもしていないし、料理をするにはあまりにも難易度が高かろうと思ったし、言ったところで大きく事態が動くはずはないだろうという諦めは抱いていた、わけだから、”言ってみた”のである。

子どもの回答。
「ママはダメなところがある。まず、包丁は危ない。お鍋も熱い。ママが子どもの時、ごはんを作っていたの?ばあばがごはんを作っていたんじゃない?ママだって何もできなかったと思う。もし分担するなら、料理を教えてよ。それに妹には無理だと思うよ。小さすぎて。トマト洗うくらいしかできないんじゃない?毎日トマトになっちゃうよ。
あと、保育園は隣で近い。ママはそのあと横に行ったり色々しながら(会社には確かに自転車乗ったり電車乗ったりして行く)、会社に行くでしょ。帰りも、会社から保育園にお迎えに来てそれから一緒に帰るでしょ。つまりわたしが保育園にいる時間のほうが長いから、同じじゃないよ」

回答にしびれました。というここまではフェイスブックに書いたのだが、続きを。

人によっては子どもに”対等”に接してていいね、と言ってくれる。でもわたしは知っている。長女はもっと子供扱いしてほしいのだ。責任だなんだ筋なんて通さず。尽くしてほしいのだ。自分のワガママに付き合い続けてほしいのだ。でも、わたしはわかっていてもそれができないし、もっというなら、やりたくない。自分でお盆で運ぶといい、経験値が低いせいでごはんを見事に床に落とし、ごはん粒が床に広がったとき、わたしは駆け寄って手伝うよりもまず、「自分でやりぃ。自分で落としたんだから。落とすことはあると思うけど、落としたのならそのあとの対処に人間性が出るよね」と言わずにはいられない。優しく遠くから見守り続けることも、できない。つい、思ったことをそのまま言ってしまう。それはわたしの業みたいなもので、もうどうしようもない。そうやって育ててきたら、彼女は妙にしっかりした5歳児になってしまったのである。しっかりなどしたくなかったかもしれないが。

子育てって、長い時間の付き合いだから、結局は自分の人間性まるごとでぶつかっていくしかなく、そこには訂正も修正もあまり効かない。効いても非常に短い期間となるし。わたしの人間の格は既に決まっていて、器の大きさ(小ささ)も決まっている。わたしはその等身大をそのまま差し出し続けて子育てしてきた。そうしたら、すごく冷静な、鋭い視点をもつ子が育った。それはわたしが鋭くないからかもしれないな。人間関係は補完だから。

今日も二人の寝顔を見られる幸せを堪能しながら眠りにつこうと思う。神様、いるなら、ありがとう。遠くにいて見守ってくれる夫にも、ありがとう。


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