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じぶんは何にお金を支払っているのか?

今日は、少しへばり気味な1日だった。
昨日の夜は、月曜にもかかわらず、てっぺん近くまで大学の同期や後輩との忘年会があったからだ。しかも場所は曳舟。遠い。。

仕事を早めに終えて、駆けつけるも19時前後からスタートし、大いに笑い、大いに食べては呑んでの夜だった。
友人が行きつけにしているホルモン焼き屋、
サカイ食堂。

ここは焼肉はもちろん、日本酒も種類も豊富で美味しい。

ホルモンや焼き物に舌鼓をうちながら、
「行きつけの店」というものについて考えてみたい。

ぼくにもお気に入りの喫茶店や、焙煎屋がある。そしてそれは、規模の差はあるものの、基本的には個人運営の店だ。

ぼくは毎回のようにそこで、
ブレンドコーヒーを頼み、ナポリタンを食べ、
オリジナルのブレンド豆を買ってきたし、これからもそうするだろう。

その時にじぶんが何を買っているか?
もっと言えば、何に対して対価を払っているのだろうか?

もちろん購入の対象である、飲食物であるし、
丁寧に焙煎されたコーヒー豆であることに間違いはない。
ただ、ぼくはそのお店そのものや、マスターや店主に対してお金を支払っているような感覚を強く持っている。
いわば、エールの代わりなのである。

目の前の一杯のコーヒーに対するお金というよりも、その人のそれまでの経験やスキル、提供までのプロセスもふくめてのお代なのである。
そして、さらに今後も変わらずあり続けてほしいと思う「サポート」のような気持ちで普段からお金を使っている。

気仙沼ニッティングの記事を先日書いた。ぼくは、ずっとずっとこの会社を応援し続けたい。
そんな思いを強くもつと、ニットを買っただけなのに、会社の株を買った株主みたいな気持ちになるから本当に不思議だ。

だからこそ、逆にじぶんの支払いがどこの誰に渡って、どうなるかがよくわからないものには消費したくないと感じてしまう。
それが、生活必需品であったにしてもだ。
そういう買い物はおもしろいない。

こういう気持ちは、ぼくだけではなく、
誰にでも多少なりともあるのではないか。

そして、それを正とした時、
じぶんがどのような「サービス提供側」になれたらよいかが見えてくるのではないか。

年明け早々に、「コーヒーの提供側」になることをイメージしていたらふと、こんなことを考えてしまう夜だった。

#エッセイ #気仙沼ニッティング

ぼくも誰かの応援をしようと思います!