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息子の選ぶ道



 先日、音大を出たばかりの息子が開いたささやかなビオラリサイタルに、友達で音楽家のNさんがいらして、素敵なnote記事に書いてくださいました。



 うちと同年代の子の母親でありながらご自身が音楽活動をされているNさんの哲学は、私自身が音楽家ではないので、我が子をサポートする上でとても参考になります。


 4、5歳から将来チェリストになりたいと宣言していた娘はともかく、息子が音楽家を志すことは、想定外でした。彼は子供の頃、重度の吃音障害があり、運動能力にも遅れがあったので、幼稚園から中学校に上がるまで、言語療法と作業療法を受けていました。そもそもセラピーは幼稚園の先生から「お友達に笑われたりしているので」と勧められたのがきっかけだったので、今思えば、笑っている子に対する指導はあったのか疑問ではありますが、とにかく息子が学校でいじめられないように、自尊心を失わないようにということが常に最優先で、学校の成績などは二の次、三の次でした。ましてや、楽器のお稽古は作業療法に役立つかも?という程度で、あまり上達しなくてつまらないようなら、やめればいい、ぐらいに思っていました。


 ハサミや鉛筆、お箸の持ち方もままならない子にとって、楽器の習得が難しくないわけがありません。それでも息子は、ピアノ、バイオリン、トロンボーン、ユーフォニアム、ビオラ、と次から次へと新しい楽器に手を出していきました。高校に入って進路を決める時期が近づいてもオーケストラや吹奏楽中心の生活を送っている息子に、「音楽をちょっと休んで勉強しなさい」と私には言えませんでした。


 楽器を弾いている時の彼は、まさに水を得た魚のようだったからです。それは、舞台に立つと豹変する北島マヤ的な時別な才能が息子にあったからというわけではなく、何をやっても不器用な彼が、魂を唯一解放できる時間であるように見えたのです。


 息子が8歳か9歳の時に参加した音楽キャンプでのこと。一週間の成果を披露する発表会で合奏する息子をビデオに撮りながら、私は不覚にも、嗚咽しそうになりました。音楽をする喜びが、抑えきれずに溢れ出ていたからです。これをこの子から奪ったり抑圧するようなことは決してすまいと胸に誓ったのです。


 10年ぐらい前に、チェリスト、ラルフ・カーシュバウム氏のマスタークラスを見学した時に、彼が言った言葉が強烈な印象を持って、私の頭に残っています。質疑応答で、高校3年生の男の子が、こんな質問をしたのです。


 「僕は、大学でチェロを専攻するか、学問をするかで迷っています。音楽か学問かで迷っている人に、進路のアドバイスをいただけますか?」

 それに対し、カーシュバウム氏はこう答えました。


 「迷っているぐらいなら、音楽の道はやめておきなさい。音楽をやってなければ生きていけない、あるいは、『自分が弾かないで誰が弾く?』ぐらいの自負がなければ、やめた方がいい。その迷いは、将来必ずまたやってくるから」。

 その時私は、ポテンシャルにあふれた若者に、なんて残酷なことを言うのだろうと思いました。多才な子供であれば、おそらく誰でも悩むこと。もうちょっと前向きなエールを送れなかったものか?


 しかし、あれからいくつものシビアな音楽シーンを目の当たりにし、我が子の悔し涙を幾度となく見ることとなり、今はカーシュバウム氏の言ったことが分かる気がします。あの時、無責任にありていのエールを送るよりも、よほど真摯で親身なアドバイスであったと。




 音楽をやっていないと生きていけない人

 自分が弾かないで誰が弾く?というほどの自負を持つ人


 息子がどちらかに当てはまるのか、私には分かりません。彼自身がいずれ向き合わなければならない問いなのでしょう。


 ちなみに、その質問をした男の子は結局、テキサス州の名門大学でチェロと英文学の両方を学び、今はオーケストラ奏者として活動しています。











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