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みんなが歴史の証言者


 細々と続けています……



 と言うにはあまりにも断続的なので、大きな声では言えませんが、弾けるとも言えないぐらい下手くそなバイオリンを、地域のアマオケで弾いたり、小さい子の入門クラスで教えるボランティアなどしています。

 アマオケと言っても収益が得られるようなレベルのオーケストラもあると思いますが、私が関わっているのは、あくまでも地域の活性化を目的とした非営利団体。つまり、レベルを問わず誰でも入れるオーケストラです。問わないのは腕だけではなく、年齢も問わないので、7歳から89歳までの団員が一緒に弾いています。


 その89歳の最年長は、日系3世のバイオリン奏者、ミセスSです。7、8年前から彼女がオケに来るようになったのは認識していましたが、子供のことで忙しかったりコロナでオケの活動が中断されたりで、なかなかお話する機会がありませんでした。先日、休憩時間に改めて生い立ちを伺ってみると、とても興味深くて、これは立ち話ではなく、ちゃんと時間を作ってもらって聞きたいと思いました。


 1941年12月7日、日本帝国による真珠湾攻撃を受け、アメリカ政府は、西海岸の日系人をアメリカ市民権の有無にかかわらず全て危険因子とみなし、内陸の砂漠地帯10箇所に設営された強制収容所に入れました。


 ロサンゼルスで生まれ育ったミセスSも、両親と共にアリゾナ州ポストンの収容所に収容されました。そこで1年半を過ごした後、父親の決断で収容所を出、コロラド州の農場に移り住みました。そこでシェアクロッパー(小作人)として暮らした後、ユタ州に移り、終戦を迎え、ロサンゼルスへ戻りました。



 バイオリンのお稽古は、6歳だった戦前に始めて、収容所内でもレッスンを続けました。コロラドでは一般の公立小学校に進みましたが、反日感情と日系人に対する差別が広がる中でも、バイオリンが弾けることで、学校のオーケストラに居場所を見出すことができたと言います。


 戦後、一家がロサンゼルスに戻ってから、ミセスSの父親は、昼間デパートの清掃員として働き、夜は行商人として日系人の仮設住宅で日用品を売り歩きました。その頃、中学生になっていたミセスSに、父親はフルサイズのバイオリンを250ドルで買ってきたと言います。当時カリフォルニア州の最低賃金は時給40セント。現在の最低賃金が16ドルであることから単純計算すると、現在の価値で、1万ドル相当ということになります。

今でも愛用しているお父さんに買ってもらった楽器



 ミセスSは大学に進学した後、高校の数学教師として定年まで働きました。

 私は大学院で日系人史を学んだので、これまで多くの日系人の体験談を読んだり聞いたりしてきましたが、ミセスSの話は、いくつかの点で珍しいと思いました。



 戦争勃発後、日系人は、西海岸以外の州であれば一般の居住地に住むことができたので、収容所を出て中西部や東海岸の大学に進学する若者はいました。しかし、ミセスSの家のように、家族で収容所を出るケースはあまりなかったのです。反日感情がこの上なく高まっている時に、白人社会で差別に怯えて生活するよりは、同胞と一緒にいる方が安全だろうという判断で、不当な処遇に不満を抱きながらも収容所に留まった人がほとんどでした。



 また、バラック小屋を並べただけの収容所には基本的に何も備えられてなかったため、ベッドリネンから食器にいたるまで、全ての生活必需品を持って行かなければなりませんでした。許容されていた荷物は手で持ち運べるだけのものであったため、バイオリンを収容所に持って行くことは、その分、持っていけたはずの日用品を諦めざるをえなかったということなのです。そして、ミセスSが収容所内でバイオリンレッスンを受けていたと言うのも興味深い話です。収容所内で発行されていた新聞『ポストンクロニクル』には、22人編成のオーケストラがあったという記録があるので、先生はおそらくそのメンバーであったと考えられます。プロ、アマを問わず、楽器を弾く日系人にとって、楽器は他の必需品を諦めてでも持ち込んだ「生きるために不可欠なもの」であったことが伺えます。




 これは大変貴重な歴史の証言だと私は思いました。そして、歴史的に価値があるだけでなく、歴史の波に揉まれながらも6歳から89歳になる今まで音楽を続け、音楽を通して差別を乗り越えて人と繋がってきたことは、多くの人にとって励みとなるし、音楽の素晴らしさを伝える力強いメッセージであると思いました。そして、その音楽を娘に与えるため奔走した、今は亡き父親の愛。これはなんらかの形で記録に残したいと思い、私は、ミセスSにインタビューを申し込みました。


 ところが残念なことに、ミセスSは首を縦に振らないのです。



 「私は、終戦まで収容所にいなかったし、もっと苦労した人はいっぱいいるから、私の経験談など、とるに足らない」と言うのです。



 この話を、プロの映画編集者である知人にしたところ、ちょうど最近、日系人収容所のドキュンエンタリー編集に携わったということで、見せてもらいました。それは、ツールレイクという、収容所の中でも、特に危険因子とみなされた日系人が送られた場所を取り上げた作品でした。「祖国を捨ててアメリカに忠誠を誓うか」というアメリカ政府の問いに対し、「自分たちの市民権を認めてくれない国にどうして忠誠を誓えようか」と声を上げた人々の激しい闘いが描かれていました。



 私はそれを観て、なるほど、と思いました。おそらくミセスSは、自分はこういう「闘う人」ではないから、記録に値するような話はできないと思っているのではないかと。



 折しも、TBSラジオ『荻上チキ セッション』を聞いていて、このことと重なる話題が上がりました。書評家の倉本さおりさんが、『アンネ・フランクについて語るときに僕たちの語ること』(ネイサン・イングランダー著)という小説を紹介していたのですが、「若い世代がホロコーストの体験談を聞く時、よりドラマチックな話を期待しがちだ」ということを言っていたのです。




 人の体験談で、記録する価値のない話って、あるんだろうか?と思うのです。どんな人も、多かれ少なかれ時代に翻弄されながら生きています。名前が教科書に載るような人でなくても、その人の体験談は、貴重な史料だと思うのです。たとえば、ミセスSが収容所でバイオリンを習っていた、という供述だけを取っても、収容所内の生活の理解に一つのリアリティを与える意味があるのです。




 「歴史」を私たちが語る時、オーラルヒストリー(口述記録)や一次資料が多ければ多いほど、よりその時代を正しく理解できると思うのです。歴史理解に必要なのは、ドラマではなく真実なのです。灯台下暗し。戦中生まれ、そして高度経済成長期を支えたの親の話も、そのうちじっくり聞いてみたいと思います。



参考資料:

Waseda, Minako, “Extraordinary Circumstances, Exceptional Practices: Music in Japanese American Concentration Camps”, Journal of Asian American Studies, Volume 8, Number 2, June 2005 pp. 171-209, The Johns Hopkins University Press

Poston Chronicle article (music activities in internment camps): https://history.msu.edu/files/2010/04/Minako-Waseda1.pdf




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