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「お参り」の習慣が、この先に子どもが経験するだろう”悲しいできごと”から子どもを守る。

最近、「グリーフケア」という考え方に出会いました。この考え方に出会って以来、これまで見えていなかったことがたくさんあったことに気づき、大きく考え方が変わりました。

「グリーフケア」とは?

「グリーフケア」の「グリーフ」とは何か?というと、一般社団法人リヴオンさんのサイトに分かりやすい説明があったので引用させていただきます。

「グリーフ」は大切な人、ものなどを失うことによって生じる、その人なりの自然な反応、状態、プロセスのことです。どんな感情も反応もおかしなものではありません。怒りも、悲しみも、時に安堵さえも失ったときに感じるのは自然なものです。

一般社団法人リヴオンさん Webサイトより

”大切な人、ものなどを失う”ってこと、とりわけ誰かが亡くなってしまう…ということは、本当に悲しいことで、時には全く整理のつかないことだったり、向き合うことさえできなかったりすることもあります。ボクの今の認識では、「グリーフケア」というのは、そのことを解決する…というよりも、そのことを”自分のそばに置いて大切にする”ということかな…と思っています。このあたりはぜひ「グリーフケア」についてみなさんも学んでみてください。

大切な人の”死”は乗り越えるもの?

この「グリーフ」について考えた時に、みなさんに紹介したい言葉があります。友人で心理学と仏教に精通している島根県邑南町の僧侶・武田正文さんが3代目がやっているVoicyにゲストに来てくださった時に語ってくださった言葉です。

「心理学」は科学なのであくまでずっと客観的なものです。「仏教」は主観なんでです。「心理学」っていうのは、目の前の問題を解決するのは得意なんですよ。だけど、心理学者が全く手が出せない領域が「人間が死んじゃう」ということなんですよ。命が終わる…ということについて、何も答えって出せないんですよ。解決しようがなくて…。だけど、この解決できないところについて、仏教は言葉を持っています。そこが仏教の中心的な役割だと思います。

Voicy「ライジャケRadio!」
#261「初コラボ生放送にチャレンジ!仏心ラジオ【仏教×心理学】の武田正文さんと!」より(要約)

つまり、心理学という科学的なことでは、人間の命が終わること、つまり”死”については扱えないってことです。そんな単純なことではない…ということかと思います。だけど、仏教は答えのない”死”を扱うことが中心になるということでした。この武田さんの話を聞いて「確かにそうだな…」と納得しました。

ボク自身も、大切な友人や、家族を亡くしてしまったことがありました。ボクの場合は、正直、いつまで経っても整理し切れることはなく、乗り越える…とかそんなことはできなくて、いつもここにあって、いつも考えている…って感じです。おそらく、どれだけ学んでも、どれだけ経験しても、クリアに乗り越える…なんてできないことがあるのが当然…ってことが”死”なんだと思います。

自分自身の抱えていた「グリーフ」のこと。

ボク自身、最近「グリーフケア」を学び始めて、やっと言葉になったのですが、思い返すと「グリーフ」を抱えていたことがありました。そして、そのことを抱えながら、自分自身が必死で頑張ってきたことにも気づきました。

実は、ボクには4つ上の兄がいて、その兄とボクの間に双子の姉がいました。しかしながら、その双子の姉は、産まれてすぐに亡くなってしまいました。物心ついた頃から、ボクはハッキリと「2人のお姉ちゃんが元気に産まれていれば、ボクはこの世に存在しなかった。」と思っていました。だから、「2人のお姉ちゃんの分も生きる。」というのがボクの小さい頃からの思いでした。だから、小さい頃から、お墓さんに「お参り」に行くときは、必ずジュースを2つ買って行って、お姉ちゃんといろんなことを話していました。

大学を出た頃からは「とことんがんばって、お姉ちゃん2人の分も合わせて、3人分生きる。」ってことを目標にしていました。おかげで、カヤックをがんばっていた時代も、小学校の教諭をがんばっていた時代もたくさんのことを学ばせてもらったし、たくさんの方とご縁をいただきました。今がんばっている「ライフジャケット」の活動も大きく広がりました。本当にお姉ちゃん2人には感謝をしています。

ずっと2人を肩に乗せて走っていた感じだったのですが、大切な師匠が亡くなってしまったり、がんばってもどうしようもないことが続いたりして、あまりにしんどいことが続いた時期があって、「お姉ちゃんの分まで生きられない。このままではつぶれてしまう…」と感じて、抱えきれなくなったことがありました。

そんな時、亡くなってしまった師匠とご縁があった、京仏師・樋口尚鴻さんのところに伺いました。樋口さんは本当に温かい木の仏像を作られていて、とりわけボクは以前から樋口さんが作られている「童子仏」に惹かれていました。それはそれは可愛らしく、小さくて温かな仏像です。樋口さんとたくさんお話をさせていただいて、その場でボクを待っていたかのようなかわいい「童子仏」を2つ購入させていただきました。

その「童子仏」を実家の仏壇に届けて、手を合わせると何だかとてもホッとした気持ちになりました。ボクの印象は「ずっと肩に乗せていたお姉ちゃんを、肩から下ろした…」というイメージでした。「童子仏」を仏壇に届けた後とこれまでとの違いは、「自分の中にいたお姉ちゃんが、形として見えるようになった。」ということでした。

その時はあまりよく分かっていなかったけれど、今になって思うことがあります。それは、対象として形にして手を合わせることができるようになったことで、大切なお姉ちゃんのことに向き合って考えられるようになった…ということです。おそらく、あの時に樋口さんの「童子仏」を手にしていなかったら、ボク自身の身は持たなかっただろうな…と振り返っています。樋口さんとのご縁、かわいい「童子仏」とのご縁に感謝しかありません。

息子との毎朝の「お参り」をしながら、自分たちの”死”を思って感じること。

やっと自分自身の「グリーフ」のことが言葉になって、息子と一緒に行っている毎朝の「氏神様」と「お墓さん」に”お参り”をしながら、また感じることがありました。

1つは、息子が対話をしているだろう姿を見ながら、「『お参り』の習慣は、子どもを支える最強のサポーターになる!」ということ。このことについては、先週、以下の記事にまとめさせていただきました。

この記事に書かせていただいたことに加えて、自分自身が「グリーフケア」について学ぶようになって、「お参り」がさらに息子にとって意味があると感じるようになりました。

実は妻の実家のお墓さんには、息子から見たら「曽祖父」と「曽祖母」がおられるんで、息子自身は出会ったことがない方です。そんなお墓さんに「お参り」をしている息子を見ながら考えたことがあります。それは、この先、自分や妻、今は元気な祖父母もいつかは亡くなってしまいます。おそらく、この先に息子はそんなボクらを思って「お参り」する時が来るんだろうな…ってことを、横で手を合わせる息子を見ながら想像していました。

大切な人を思う”カタチ”があることの価値。

「お参り」する息子の姿を見ながら、子どもたちがこの先に大きな悲しみを経験するかもしれない時に、この「『お参り』する習慣があるかどうか?」について考えていました。

ボク自身が「童子仏」を手にした時に経験したように、「お参り」の習慣がなければ、自分自身の心の中であったり、肩の上に乗せてたりするかも知れないな…と思ったのです。だけど、「氏神様」や「お墓さん」のような「お参り」する場所があったり、「お参り」をする習慣を持っていたりすることは、子どもたちがいずれ経験する悲しみを心に抱えこまなくて済むようにするための1つのツールになるはず…と思っています。

またこれから息子たちを「お参り」に連れて行く時に、子どもたちの姿を見ながら、また考えを深めていきたいと思います。そして、もしかしたらずっと先かも知れないけれど、この先の息子たちを守っていただけることを「氏神様」と「お墓さん」にお参りしながら、ご先祖様にお願いしたいと思います。

庵治石細目「松原等石材店」3代目 森重裕二

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