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自分らしさ、フリーレン、チェット・ベイカー

「自分らしさってなんだろう」

例えばドラマーとしての僕の場合「何をどう叩いてもロック(のフィーリング)になりますよ」という部分が、対外的にわかりやすい”自分らしさ”なんだろうな、と思う。なぜそんなことに思い至ったのかと言うと、つい先日大量の譜面を整理していて、そろそろiPadを導入したいな〜、したいな〜と思い始めてから5年ぐらい経ってるな〜、なんてぼんやり考えていた折。

「譜面を見て叩く(仕事もするような)ドラマーになってる」

という事実を俯瞰して、得も言われぬおかしみを感じてしまった、というところから。夢を思い描いて上京してきたけれど、バンドではなく一人で音楽業に、それも比較的幅広いジャンルに対応するようになっている。
いわゆる”なんちゃってサポート業”みたいなものは中高生の頃からしていたけれど、それだって初めて数年の中高生に叩ける程度のもの。だいたいロックかブルース、ときどきポップスやメロコア。とりあえず大きな身振り手振りでデカい音が出せるやつなら誰でもいい、ぐらいの。
本格的に仕事を始めた頃は苦手(通ってきていない)ジャンルに対するコンプレックスがとても強くて、アカデミックな下地や、多様なジャンルに対する備え、引き出しなんかが圧倒的に足りていない、知識や理論に関してはそもそも自分の中に存在していないことに対して「バンドしかやってこなかったから」「だって俺はロックドラマーだから」と開き直りつつも「このままじゃいけないな」という焦燥も常に渦巻いていて。それまで経験したことがないようなジャンルの現場に呼ばれた時も、仕事を振られたことへの喜びや誇らしさよりも「どうして自分なんかが呼ばれたんだろう」「もっと上手にできる人がいるのに」という思いが先立つ程度には、それはもうこじらせていた。こじらせ尽くした。なんせ譜面も読めなかった。

例えば自分が油絵に特化した画家だったとして。日本画やデジタルイラストの仕事が来た時には”それまで油画に使ってきた技法や経験則”しか持ち出せない。

けれど。それでも。

「(それでも)自分に依頼してくれたのだから」と。

今ではそう考えられるようになった。時間は掛かったけれど。

無理に鳴りを潜めよう、いい子ぶろうと画策するのもやめて、”自分なりのブルース”や”自分なりのジャズ”、”自分なりのメタル”を叩くようになった。そうじゃないと、自分である意味がないから。せめて喜んでもらえるように、ああでもないこうでもないと唸りながら、持てる限りの力とアイディアで全力を尽くす。
最初は開き直りでもいいと思う。それが経験として積み重なって、自信に繋がって、矜持になっていくから。「これが僕です」というものになっていくから。
もちろん、日々の練習と研究/勉強は必要。それは絶対に避けて通れない部分ではある。あるけれど、それらを一つ一つ丁寧に、丹念に、楽しんでいく。まだまだ自分の知らないもの、自分の中になかったものが増えていくことを、愛しんでいく。

「自分らしさ」なんていうものは、言うなれば事後的な意味づけ程度のことでしかない、ただの言葉だとも思う。言語化が難しい。現場やコミュニティによって自分の立ち位置、イメージ、評判というのは大きく異なるし、それらの断片をかき集めたものが”自分”かと言われると、それもどうやら違う感じがする。
とどのつまり。

「あなたが居るから」
「安心する」「嬉しい」「楽しい」「頼もしい」

その時々。それぞれの場所で。そういうのでいい。そういうのがいい。
「これが僕です!」という”もの”だって、他者がいなければ成り立たないから。関わる人の数だけ、その時々の自分、色んな自分が居ていい。
それを「一貫性がない」とか「八方美人だ」とか言ってくる人は、そもそもにおいて”僕”の構成要素に含まれない人だから、気にしなくていいのだ。

実際は”気にしないようにしている”だけで、アンチコメントとかめちゃくちゃ凹むんだけどねw


待望の『葬送のフリーレン』アニメ版が放映/配信開始されたゾ!という話。

新規層の取り込みと原作ファンの不安の払拭をも狙っていたであろう事前プロモーションの力の入れようは凄まじいものがあり、この手の顛末でありがちな「思ってたのと違う・・・」ということにはならず。個人的な感想としては、期待を大きく超えてくれた。素晴らしかった。
漫画では表現できない「音」「声」「動き」「空気感」が在った。これは間違いなく、アニメーション作品として息づいている『葬送のフリーレン』だ。
連載開始当初に読んだ第一話の、胸の奥に溶け込んで染み渡るような余韻を、また味わえた。あの時と同じように、ふふんと鼻で笑って、ぼろぼろと泣いた。深く、深く、ため息をついた。

素敵な作品なので気になった方は是非。劇伴もすごくいい・・・。


チェット・ベイカーの伝記映画『ブルーに生まれついて』を観た。

こういう芸術家、とりわけ音楽家の伝記映画だとジェイミー・フォックスがレイ・チャールズを演じていた『Ray』が一番好きだった(当時DVDもサントラも買った)。僕はジャズの造詣が深くない、勉強中の身ではあるのだけれど、たまには歴史を学ぶのではなくエンタメで楽しむというのも一興かなということで手に取ってみた。あとイーサン・ホーク好き。

チェット・ベイカーに関する知識は『My Funny Valentine』という曲や、彼の『枯葉』のアルバムにスティーヴ・ガッドやジャック・ディジョネットが参加していたなぁ、という程度の浅いもので、ベイカー氏本人の情報はまったく知らなかったので新鮮に楽しめた。ジャズファンからは「そんなことも知らないのか」とお叱りが飛んできそうな浅学さ・・・。

時代の寵児とまで持て囃されたベイカー氏の”再生”を描いている本作は、海外ドラマで言うなればシーズン2か3からのスタート。一度はスターに上り詰めたのに転がり落ちてしまった彼の人生の悲哀にフォーカスしている。
「白人のトランペッター」がシーンでのし上がること、認知され名声を得るためのハードルの高さ、当時の社会的な背景なんかも窺える。

イーサン・ホークの退廃的な雰囲気は無類。この人は自己破滅型の人間を演じさせても堂に入ってる。彼がもともと持ち合わせいる空気や気質によるものなのか、うっかり触れると怪我をしてしまう刃物のような空気、常に張り詰めている一本のピアノ線のよう。
複雑なようでいてシンプル、倒錯的でいて芯は純粋な、この映画から受ける”イーサン・ホークのチェット・ベイカー”という像が強烈過ぎて、果たしてベイカー氏本人とどれほどの乖離があるのか。

うん、結構楽しめました。これで「ジャズを学んだぞ!」「歴史に詳しくなったぞ!」とは1ミリもならないけれどw
終わり方は好みがハッキリ別れそう。僕は好き。

ちなみにイーサン・ホークの映画で一番好きなのは『トレーニング・デイ』で、これはダブル主演のデンゼル・ワシントンも鬼気迫る、恐ろしいほどの演技を見せているのでスリリングな映画が好きな人は是非。終始テンション(張り詰めている方の意)がバチバチに高い。痺れます。

次点が『ビフォア』シリーズか『ガタカ』かな。

ちなみに音楽家の映画だと一時流行った『セッション』はあんまり楽しめなかった派です。演出や作品内の情緒は良いんだけど。セッションっていう邦題がそもそも合ってないし「音楽(ジャズ)の世界ってこんな感じなの!?」という印象を強烈に植え付けてしまいかねない。作為的ですらあると思う。

結局『スクール・オブ・ロック』ぐらい頭使わなくていいフィクションものが一番純粋に楽しめるのかも知れないね〜

全然関係ないけど、これから何か楽器を始めるならサックスがしたいなと思う。カッコいいから。バリトンぐらいイカついサイズのやつがいい。いつか余裕ができたら習い始めてみようかな。

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