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あの頃の私だったかもしれない誰かの助けになりたい

進路面談

「頼む、早稲田も受けてくれーー!」

担任の悲鳴にも似た叫びが面談室に響いた。

「お前を就職させたら俺のクビが飛ぶ!」

だよね。私、成績いい方だもんね。進学実績にカウントしたいよね。そう思いながら私は言った。

「私の考えは変わりません。私が受験するのは国立と慶應だけです。全部落ちたら浪人せず就職します。」

その背景

私は貧困家庭にいた。周囲は誰も気づいていなかったと思う。私は私立の高校に通っていた。妹も弟も、私立の中学校に通っていた。母は世間体を気にしたから、貧困状態になっても私達が学校をやめるということはなかった。たまに親を頼ることはあったようだが、行政の手を借りることはなかった。お嬢様育ちの母は、お金の使い方や節約の仕方を知らなかった。私が母に指導することも多々あった。

食べるものに困るほどの貧困だった。母の年収は200万円を下回っていた。私は学校で禁止されていたアルバイトをしていた。自分のお小遣いのためではなく、ただ家族が食べるために。そして、まかないで自分の腹を満たすために。

学校の調理実習で、班の中でじゃんけんで負けた人が家から米一合を持参するという決まりがあった。じゃんけんで負けたときには絶望しかなかった。家に米がなかった。

大学進学への思い

母は私を大学に進学させたがった。母はあまりに世間知らずだから、大学に進学しないという選択肢すら知らないんじゃないかと思った。でも、私も大学に進学したかったので都合がよかった。

学校は進学校だったので全員が大学進学希望だったが、バイト先の様子は違った。大学に進学するという選択肢が普通ではない世界がそこにあった。中卒の人もいた。その中で私はあらためて、自分の中に学ぶことへの渇望があると気づいた。

でも、受験料は重い。授業料も重い。

浪人もあり得ない。浪人に費用がかからないのは知っていた。私の成績なら、大手予備校は授業料を免除してくれる。それでも、うちには無職の人間を食わせる精神的余裕はない。それに結局大学に進学するのなら、大学生である期間が妹となるべくかぶらないようにしたかった。

しかしあろうことか、いつしか私は国内でも費用が高い部類の大学(慶應SFC)に惹かれていた。

どうしても受けたい。国立への進学を前提に、SFCもせめて受験だけはしたいと言った。母に拒否権はなかった。大学の受験料は決して安くはないが、私がこれまで家計に貢献してきた額を思えば、比較にもならなかった。授業料のことは考えないようにした。母はもしかしたら国立大と私大の授業料の差もわかっていなかったかもしれない。

私はセンター試験の直前まで働いた。正月は時給が上がって稼ぎ時だから。

今でも母に頭が上がらない理由

センター試験の結果はあまりよくなかった。私は、国立の受験校を安全志向にするかどうか悩んでいた。

母は言った。

「東大受けなよ」

相変わらずバカな母だなと思った。私、東大落ちたら慶應だからね、マジで惹かれてるんだからね。普通そこ安全な学校を勧めるでしょ。国立行かせたいでしょ。

***

東大の後期試験を終えて、絶対に受かったと思っていた私に届いたのは、不合格の通知だった。例年よりも合格最低点が高かったことを後で知った。

悔しかったけど、受けてよかったと思った。

受けて、落ちた。私の力は足りなかった。それを知ることができた。もし安全志向に切り替えてどこか別の大学を受けていたら、きっと受かっていたと思う。そしてその後の人生でずっと思っていただろう。「私、もしかしたら東大にも受かったかもしれないのに」と。

大学生になれた

私はSFCに進学した。給費・貸与いずれも受けられる限りの奨学金を受け、国の教育ローンを組み、バイトを3つ掛け持ちして大学に通った。私の収入は一切家計に入らなくなったので、家計には実質的な負担があったかもしれないが、私に関係する支出もなくなったのでまあどうにかなっていたのだろう。家計を助けることはできなくなったが、口減らしにはなったのだから。

奨学金受給の決め手になったのは私の家計と高校の成績だった。一般入試組でも奨学金を狙うなら高校の評定平均を上げておくことは本当に重要なのに、こんなこと大学に入るまで誰も教えてくれなかった。評定は指定校推薦のためのものだって言った人、出てきなさい。

私の大学生活は、学生らしい飲み会やサークル活動や世界一周とは無縁だったが、とにかく学ぶことが楽しくて仕方なかった。そのまま大学院に行けたら幸せだろうと思った。でも私は就職を選んだ。正直、働きながら借金を背負いながら学ぶことに疲れてしまっていた。大学院にはお金の心配を無くしてから戻ろうと思った。

妹が受験生になる頃までには、家族は生活基盤を立て直していた。地元の大学に進学した妹は、交換留学で海外に行った。私がどれだけ望んでも口に出すことすらできなかったことを妹が叶えたのが嬉しくて、私は生後8ヶ月の長女を抱えて、母を伴い妹に会いに行った。

ちなみにこの時、「交換留学なら費用がかからないのにあなたはどうして行かなかったの?」と母に聞かれた。母は母のままだった。掛け持ちしているバイトは、留学先では一切できません。私はどこで生活費を得るんでしょうね。

余談

実は結局、早稲田も受けた。出願期限ギリギリに父から電話がかかってきた。受験料は負担するから、自分の母校を受験してくれというものだった。

私はそれに応じた。でも本当は、その受験料よりも、生活のためのお金がほしかった。

早稲田も受けると知ったときの担任の安堵はすごかった。私は人を1人救ったと思った。受験の経緯からして早稲田に進学するつもりは無かったが、それは口にださずにおいた。だって担任はがっかりするだろうし、私は志望校への合格を信じていたから。

今できること

自分の経験から、それなりの収入を維持することは私にとって最優先事項だった。今、子供たちには贅沢をさせているつもりはないが、不自由もさせていないと思う。

中学校に入った娘は、学校で行われている数多くの任意のボランティア活動の中からフードドライブに参加することを選んだ。缶詰などを回収し、それを助けが必要な家庭に配布するという活動で、私は「あの時まさにこういうのがあったらもう少し私の生活にも潤いが出ていたんじゃないかな」という何だかわからない目線で娘の選択を支持した。食べ物に困る苦悩を娘が身をもって体験し理解することは永遠にないと思うしないと信じたいが、食べ物に困る人が日本にも存在するということだけでも理解してほしい。

私自身は今、子供の貧困問題に取り組むいくつかの団体に超少額ながら寄付をしている。私はたまたま、母が特殊だったから大学に進学できた。特殊というより、狂っていたと言ってもいいレベルだと思う。そしてたまたま、周囲が私の高卒就職ルートをどうにかして潰そうと動いていた。私にとって大学進学は約束された道だった。

でもきっと、同じ生活水準の家庭があったらそのほとんどは進学を断念していると思う。少しでもそんな人が減ればいいと思う。私がしている寄付で救えるのはせいぜい1人か、それにも満たない数だと思う。それでも、そういう状況にいる人達には、この問題を真剣に考える大人がいるということを知ってほしい。

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