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Scene.0x : 犬が座ってスマホが震える

犬がその場に座り込んでしまって、できれば私も座り込みたいと思った。

今は朝の9時で、仕事に行く人はもう仕事に行ってしまって、仕事に行かない人は家にいるか、早めの買い物に出かけたりする時間で、保育園の子ども達が散歩に連れられて来たりしている。

私は朝食を済ませて、在宅勤務の開始前にジョンを散歩に連れて行くいつものルーティンをこなそうとしている。別に必ずこの時間にやらないといけないわけじゃないのだけれど、散歩に連れて行かないと家の中で走り回るので、仕事の前に連れて行った方が落ち着いて放っておける。

でも今日はけっこう疲れていて、それというのも昨日の夜遅くに原稿の修正依頼が来たからで、私はライターで、昨晩中にそれを再提出しないといけなくて、多分今朝の始業とともに編集者がそれを見て、もう一度修正依頼が来る。彼らの始業は8時半で、多分今頃私の原稿を見ている。

私は切り替えるのが上手くない。仕事モードと生活モードを上手く切り替えられない。犬を散歩させながら仕事モードのスイッチを入れることができない。拒んでいる、という方が近いのかもしれないけど。

だから生活モードの時に仕事の連絡を受けるのはできるだけ避けたくて、仕事の連絡はなるべく仕事モードの時に受けたい。

だからといってスマートフォンの仕事関連の通知を切る度胸はなくて、メールでもチャットでも編集者から連絡が入ればリアルタイムでそれを受ける。

もう5分も歩けば家なのだけれど、ジョンは疲れて歩みがだんだん遅くなって、散歩中に仕事の連絡が来てしまうんじゃないかという私のやきもきは、ジョンの速度に反比例して増していた。

別に社運(フリーランスの人間の場合こういうのはなんていうんだろうか。命運?)をかけた仕事ではないのだけれど、なんだか今日はひどく自分が弱っている気がして、寝不足のせいなのか、低気圧のせいなのか、加齢のせいなのか栄養素の不足のせいなのか、原因はわからないけど、ひどい内容の連絡が来たらなんだか心が折れてしまいそうな気がしていて。

そうならないために、連絡が来る前に少しでも虚勢を正しておきたくて、だけどジョンがとうとう歩みを止めて座り込んでしまって。

もうこのまま、私とジョンの時を止めておいてくれればいいのに、と思った。ジョンの方が私より早く回復すると思うけど、二人に気力が戻るまで世の中を止めておいてくれればいいのに、と。

でもきっとジョンはそんなこと思っていなくて、私も犬だったら路上にぺたっと座り込めるのに、人間だから、そんなことしたらおかしな人だと思われるからしなかったけど、ジョンは体力的な消耗だけで、私はそれ以上に精神を消耗しているから、やっぱり人間だ。

目の前の横断歩道の信号が青になって、赤になって。また青になって、点滅している時に、スマートフォンが通知で震えた。ジョンが座り込んでいなければ、仕事部屋で仕事モードでこの連絡を受けられたのに。

私はまだ画面を開く勇気がない。バイブを感じた左手はそのままポケットに突っ込んで、右手でジョンの紐を引っ張った。信号は赤のまま。青だったら無理やりジョンを歩かせただろうか。いや、そんな気力はなかったな。

もうずっと赤のままだったらいいのに。そしたら一生、家に帰れないって言い訳ができるのに。

信号は青に変わって、私がジョンを見たら、ジョンも私を見ていた。その眼からは「どうする?」という言葉が聞こえて来て、私はジョンを立たせて家に帰らないといけない、とだけ思った。

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