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浪人生の涙はコーラとオレンジジュースを混ぜた色

 平日の昼下がり。浪人生の木城空斗は予備校の授業をサボって、近所の商店街にあるファーストフード店で、ほとんど氷しか残っていないコップに刺されたストローを咥えつつ、無為に時間を過ごしている。2階の窓際の席に座っている彼は、横目ながらに街ゆく人々の姿をなんとはなしに眺める。季節は夏。外は灼熱地獄で、そこには、額の汗を拭きながら歩く臭そうな小太りの中年男性や、日傘を差しながら歩く若い女性などがおり、どの人も皆、この暑さに大変苦しめられている様子だ。そういった姿を、クーラーの効いた快適な室内から優雅に見下ろすことは彼にとってたまらなく愉快な道楽なのだが、同時に、さっきから心の深層で鳴り続けている虚しさには気が付かないようにしている。
 昼飯時のピークを過ぎたからか、比較的広い店内は閑散としている。レジは1階にあるから、2階スペースはごく静かで、さっきから聞こえてくるのは陽気な店内放送だけである。2階には彼の他に、近所のFラン大学に通っていると思われるいかにも冴えないガリガリの腐れ男子大学生が2つ隣の席におり、斜め向かいの席にはさっきからずっとスマホをいじっている眼鏡をかけた肥満体型のおばさんがいる。それぞれが各自、無意義な時間を過ごしている。平日の昼下がりのファーストフード店はいつもこんな感じなのだろうか。はたから見れば、これ以上ない程退屈な空間である。
 しばらくすると、眼鏡のおばさんが帰っていった。店内には腐れ大学生と同じく腐れ浪人生の2人だけになった。平日のこんな時間にファーストフード店でたった一人時間を潰している大学生は、なんて惨めな存在なのであろうか。腐れ浪人生は腐れ大学生のことを哀れに思った。自分のことを棚に上げることは彼の得意技なのだ。
 せっかくだし、少しは勉強をしようと思い、リュックサックから参考書を取り出そうとしたとき、カッカッカという音が鳴った。
 
 若い女が来る!

童貞の木城の嗅覚は鋭い。足音や歩調の軽やかさから、その人がヒールを履いていることや、年齢が比較的若いであろうことを瞬時に読み取ったのである。この嗅覚の鋭さは、学生時代から全くと言っていい程女子との接点を持てなかった木城が育て上げ、いまや爆発寸前までに膨れ上がった中学生顔負けの童貞精神と、女性との関りを完全に絶たれてしまった予備校での男子校のような生活による女性への飢によって研ぎ澄まされたものである。云わば、意図せずに行われた、彼の長年に渡る自己教育の賜物であった。
 彼の読み通り、足音の正体は若い女性だった。しかも、その女性は彼好みの短髪美女である。彼は、その女性がどこの席に座るのか注目した。自分の隣は無理だとしても、せめて向かいの席に座ってはくれないだろうか。心の中で祈り続けた。すると、まるで童貞の神がそう仕向けてくれたかのように、短髪美女は吸い込まれるようにして彼の向かいの席に腰掛けた。彼は興奮した。あまりにも思い通りにことが運んだから、もしかしたらこの女性は俺に気があるのかもしれないとすら思った。童貞をこじらせた浪人生の発想というものは恐ろしいものである。彼は、電車で女性が自分の隣に腰掛けてきただけで、必要以上にその女性のことを意識してしまう類の人間なのだ。
 短髪美女は席に座ると、運んで来たトレーを横に置き、リュックサックから取り出したノートパソコンをテーブルに開いて早々に作業を始めた。みためからしておそらく大学3・4年生ぐらいだろうと推察する。
 
 最初は単なる童貞のしょうもない妄想だった。こんな女性とデートできたら楽しいだろうな。その程度のものだった。だからといって彼女に声をかけることなんてできるはずもなかった。彼にはそんな勇気もなければ、仮に話かけたとしてもデートに誘いだせるだけのスキルもない。だから、こんな妄想は心に留めておくつもりだった。が、20分ほど時間が経過すると、次第に彼の妄想は何故だか、彼の中で現実味を帯びてきた。

もしかしたらいけるのではないか。
やらなかった後悔よりも、やった後悔って誰かが言ってた気がする。
そうだ、当たって砕けろだ!

その時の彼はどうかしていた。彼の脳内では、恋愛や告白を後押しする曲が爆音で再生されている。自分を良く見せたいがために若者に対して、無責任に耳障りの良いことを吐く人間は自身の罪を反省しなくてはならない。その不用意な発言が、1人の若者をここまで狂わせてしまうのである。しかし、人間とは恐ろしいものである。自分の決断や現状を正当化するためならば、客観的分析を放棄して、都合の良い情報だけで頭を一杯にしてしまうらしい。そこに、冷静な判断ができる余裕はほとんど残っていない。また、彼の場合はそれに加えて、極度に女性に飢えていたということがさらに拍車をかけた。
 その時点において彼を足止めする障害は一つだけ。横にいる腐れ大学生の存在である。彼は自分がナンパする様子を、この腐れ大学生に目撃されることを恥じた。だから、この男子大学生が店を出るまで辛抱することにした。しかし、腐れ大学生は一向に帰宅する気配を見せない。そのうち、

もしかしたら、こいつもあの女性を狙っているのか?ケっ、どこまで醜い野郎なんだ。お前ごときが入ってくる場面じゃねえんだよ。鏡で自分の顔見て来いってんだ。しょぼくれた面しやがって。さっさと家に帰れ、ばーか。

腐れ大学生に対する嫌悪が次第に怒りに変わっていく。彼はここでもお得意の自分のことを棚に上げる技術をいかんなく発揮した。しかし、腐れ大学生は帰らない。しかたなく、彼はナンパを成功させた後のスケジュールを考えることにした。せっかくナンパに成功しても、そのあとのデートの予定を立てていなかったら彼女に失礼である。デートの段取りをあらかじめ決めていて、女性をスマートにエスコートできる男性がモテるって恋愛本に書いてあった。自称恋愛マスターとして高校時代は同じ部活の同じく腐れ男子どもからカリスマ的人気を集めていた彼は、所謂恋愛テクニックと呼ばれるものは概ね把握していたのである。彼は脳内で以下のことを考えた。
 
 とりあえず、店を出たら電車に乗って隣街の映画館に向かおう。初デートは、お互いあまり話さなくても楽しめて、なおかつ共通の話題に困らない映画デートが無難だからな。最近はどんな映画をやっているんだ?恋愛映画は狙いすぎだし、だからと言ってアクションも幼稚すぎるよな。心温まるヒューマンドラマなんか良いよな。おっ、あった。これにしよう。口コミもいい感じだ。ちょっと待てよ、映画に行くのは良いとして、お金はどうするんだ?こっちが誘うんだから、当然映画代は俺が出すべきだよな。あと、映画のあとはご飯にいくことも考えると、大体二人合わせて合計1万円くらいか?いや、そんな金持ってねーよ。浪人生だってことを正直に話せばさすがに割り勘にしてもらえるか。自分が払う分の金額さえ持ってればいけるはず・・・

財布を開くとそこにはお札が一枚もなく、小銭入れに500円玉が一つあるだけだった。彼は絶望した。そのタイミングで、腐れ大学生は帰っていった。腐れ浪人生は帰りゆく腐れ大学生の背中をにらむことしかできない。そんな腐れ浪人生の心の中の葛藤など知るべくもなく、短髪美女は時折髪を耳に掛けつつ、淡々と作業を進めている。
 しばらく落ち込んだ後、彼は一縷の望みをかけてリュックサックに金がないか探した。すると、リュックサックの前ポケットに封筒を発見した。そういえば、参考書代として親からもらっていたお金をリュックに入れていたような。彼は急いで封筒を取り出し、中を確認すると、そこには一万円が入っていた。まだ一円も使っていなかったのである。彼は狂喜乱舞した。加えて、これは神が味方してくれている証拠だと思った。その時点で、彼の中から「何もせずに帰る」という選択肢が完全に消えた。少し怖いけれども、ここまできたら挑戦せずに帰ることなど出来ない。
 彼は階段を下りて一階のレジに向かった。そこで、コーラとオレンジジュースを一つずつ注文し、それを持って再び二階に戻った。そして、内心怯えながらも、何とか相手にその動揺がばれないように、自分は熟練ナンパ師だと自分に言い聞かせ、見せかけの余裕をかましながら
 「こんにちは」
と声をかけた。彼女はこっちを見ない。どうやらイヤホンをしているから外の声が聞こえていない様子である。もう一度、今度は少し大きめの声で
 「こんにちは」
と呼びかけると、彼女はイヤホンを外し、めんどくさそうにこっちを見てきた。変な間ができてはいけないと思い、
 「なにしてるんですか」
と聞くと、彼女は
 「作業です」
とそっけなく答えた。そのあまりにそっけない態度に、根が湯豆腐のように柔らかく傷つきやすくできている彼は頭の中が真っ白になった。とりあえず少し距離を取って彼女の隣に腰掛けた。そして、テーブルにコーラとオレンジジュースを乗せたトレーを置いて、いったん心を落ち着かせてから
 「コーラとオレンジジュースどっちが好きですか」
と聞く。
 「別にどっちも好きじゃないです」
パソコンに目をやったまま答える。
 「もしよかったら、どっちかいりませんか」
 「大丈夫です」
彼は完全に敗北した。ここからの挽回方法が思いつかない。それ以前に、次の言葉が出てこない。彼は彼女の作業を黙って見つめる他なかった。
 3分ほど沈黙が続いたのち、ついに彼女が口を開く。
 「そろそろ元の席にお戻りになったらいかがですか」
 「は、はい。そうします」
彼は立ち上がって、大人しく自分の席に戻った。
 自席に戻り、買ってきたコーラを一口飲むと、急にいたたまれない気持ちになってきた。心臓の鼓動をしっかりと感じ取れるほど動揺している。恥ずかしさで頭がおかしくなりそうであった。従って、彼は早々に帰宅準備を済ませ、ほとんど口をつけていない、オレンジジュースとコーラをトレーに乗せて一目散にその場から逃げ出そうとした。動揺で体全体がぶるぶる震えている。脚も膝も肩も手も頭も何もかもが自分の思い通りに働かない。その時の頭の中は「恥ずかしい。早くこの場から逃げ出したい」だけだった。
 トレーを持つ手が震える。冷汗は止まらない。なんとかして立ち上がり、ごみ回収スペースに向かおうと歩み始めたその刹那、彼はトレーを思いっきりひっくり返した。プラスティック製のコップが勢いよく地面に落ちる音と、「キャッ!」という短髪美女の叫び声が店内に鳴り響いた。彼は慌てて、テーブルにあった布巾で床を拭こうとしたが、その布巾では、こぼれた飲み物の量に対してどう考えても大きさや吸水力が足りない。しかし、彼はそんなこと考える余裕もなく必死になって床を拭く。笊で水をすくうがごとく無意味な作業の無意味さにも気が付くことなく、とりあえず何かしなければならないという強迫観念によって作業を続けていると、間もなくしてアジア系の若い女性店員が一階から駆け付けた。店員は慌てている。彼はそれ以上に動揺している。
 「ダイジョウブですか」
店員に心配された。
 「大丈夫です。それより、すみません」
床を拭きながら、彼は消え入りそうな声で答える。すると、
 「私が掃除しときますんで、お客様はダイジョウブです」
と外国人店員は言った。パニック状態の彼は、店員に頭を下げ、逃げるようにして店を出た。
 店を出ると駅の方角に向かって、賑やかな商店街のメインストリートを全力で走った。恥ずかしい気持ちや情けない気持ち、そして泣きそうになる気持ちなど、あらゆる感情の全て拭い去るために、必要以上に大きく手を振って、必要以上に全力でメインストリートを駆け抜けた。彼は泣いた。情けなくて泣いた。駅までの道のりは果てしなく遠く感じられた。





 


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