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ソラニンと声

ーママ?これ、何?遺言?
絶賛断捨離中の長女が本棚の整理をしていて、見つける。


ーあ、意外と早く見つかっちゃったな汗


ー一昨年の書き損じ年賀ハガキの裏に遺言って、アリなの?随分テキトーだな。

ーいや、入院中、何があるか判らないことを実感したから、時間だけがたっぷりあったし、備えあれば憂い無しっていうじゃない?
ハガキ?いや、書き損じを切手に交換しようかなってたまたま沢山持って搬送されたんでね…

ー読んでいいの?


ー勿論、二人に向けて書いたんだから。でも何書いたか忘れちゃったな。その時は何か書き遺さなくちゃと思ったんだけど。

ーじゃあ、自分でももう一回読めば?

ー自分んで書いた遺言自分で読み直す機会があってよかった笑でも、いいや、こういうのは一回性というか、ナマモノみたいなものだから、いいやママは。

ー私もいいや。ママ生きてるし。あ、ソラニン!ウチにあるって言ったんじゃん!やっぱあったわ。

アジカンのライブ会場で、ウチにソラニンがあるとかないとかで水掛け論交わした親子でしたが、バンギャの記憶の方が正しかった。朝ヨガで汗を流したあと、Magic Discを聴きながら、ヨガマットに寝そべってソラニンをまた読む。至福のときだ。

今週頭の中にぼんやり霞のように漂っているのは声のこと。

久しぶりにあった同僚たちと話していて、ふとしたことから、人間の記憶は声から消えてしまうらしいという話になる。そう言われてみると、記憶というのは物語やエピソードだったり、映像画像視覚情報で多くできていて、声の情報は少ないかもしれない。

7年ほど前に亡くなった、学生時代に居候もしていた祖母のことを思い出して見ても、顔や一緒に住んだ家の間取りや、連れて行ってもらった東横デパートとかサンリオショップのことは鮮明に思い出せるけど、祖母の声は朧げに不確かにしか思い出せなくなっていることに気づいて愕然とする。

ー目の見えない人の世界はどうんなんだろうね。

ー視覚情報がゼロの人の記憶ってことですか。

ーそう。残った聴覚とか触覚とか、その他の感覚がもっと鋭敏で豊かなんだろうね。記憶の仕方も違うんだろうね。

ーそうですね。その人の持ってる間、とか。声のトーンとか、見える人が視覚に頼って切り捨ててるものがあるんじゃないですかね。母親が亡くなって葬式に出たって涙も出ませんでしたけど、家電の留守電の再生ボタンを間違って押しちゃって、流れた音声に、ああ、お袋が死んだんだなってその時初めて実感しましたね。声って不思議な力があるんじゃないですか。

ーうん。今話してるこの声も消えていくねえ。

声の記憶、音の記憶。

前々から思っていたんだけど、放った瞬間から消えていく音声に、思いを乗せるっているこの刹那に、かけてるミュージシャンってのはどこまでロマンチストなんだろうと。記憶からも音は最初に消えていく。それでも、アジカンがあの夜に歌ったあの歌に心が体の深部が震えたことは忘れないし、脳内再生は永遠に可能だ。

吃音のラッパー達磨くんがラップにすると吃らないと言っていたけれど、音と言葉が邂逅するとき、音楽が生まれる時、なんらかの化学反応が起きて、それを発する側もそして受け止める側も、音声以上の情報として脳内で処理するんじゃないかなあ。

ディスクが止まる。地球は回る。私も回り続ける。

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