月の見えない夜だった

朗読用ミニ小説
読了目安時間 5〜10分
ーーーー以下本文ーーーー
月の見えない夜だった
昼間の暑さを感じさせる生暖かい風が吹いているのを今でも覚えている
それは何でもない日常の一コマのはずだった
あの場所に迷い込むまでは
あの日、私は初めて地元から離れた都会に遊びに着ていた
まぁ都会と言っても東京程の大都市では無い訳だが、あの頃の私には都会と言っても良いだろう
自分の目に映る何もかもが輝いて見えて、ろくに地図も見ないで歩き回ったのを今でも覚えている
大小様々な建物に入る雑多なお店を横目に歩く私の目に飛び込んで来たのは少し寂れた喫茶店だった
看板には今にも消えそうなOPENの札が、ビル風に煽られてガタガタと勢いよく喫茶店の扉を叩いている
中からはコーヒーのいい匂いが漂ってきて、私は咄嗟に扉を開けていた
少し軋むような音を立てて開く扉からは埃っぽい空気が微かに漂っている
「すいませーん」と店内へ向けて声をかけても返事は来ない
店内からは微かにお湯を沸かす音がして店内へと足を踏み入れた
扉が軋みながら締まると、ドアベルがカランと小気味良い音を立てていた
薄暗い店内を見回してみるが休日の昼間だというのに人の姿は見当たらない
カウンターには【お好きな席へどうぞ】と書いてあり入口の近くのテーブル席に腰掛けた
「ふかふかだ!」と思わず呟いてしまう程の柔らかな椅子に驚きを隠せないでいると、奥の方からクスクスとした笑い声が聞こえてきた
都会の喫茶店に一人で入る田舎者の絵は、傍から見れば面白いのだろうか?
そんな疑問と少しの不快感を覚えながら奥に居るであろう人物に向かって「アイスコーヒーひとつ下さい」と声をかけるが返事がない
少しの気まずさと居たたまれなさを感じカウンターの奥へと目を向けるが、そこだけ夜になったかのようで調理場をうかがい知ることが出来なかった
「流石に何かがおかしい、場所を変えようかな」と思い席を立ち上がった時にある事実に驚いた
なんとテーブルの上にはグラスに並々と注がれたアイスコーヒーが置かれていたのだ
それは少し前から置かれているかの様な水滴の付き方をしていて、まるで席に付いたときに出されていた様な錯覚を覚える程だった
けれど私が席に付いたときには確かに置いてなかったはずだ
誰かが頼んだコーヒーのある席にわざわざ座るなんて流石にあり得ないし、それでトラブルになるなんてあまりにもバカバカしい
もちろん席に付く前に何も置かれてないのは確認済みだ
一体いつここにコーヒーを運んできたのか、こんな芸当が出来る店主はどんな人なのかとても興味を持った
そんな私の思考とは裏腹に目の前のコーヒーから漂う香りはとてもいい匂いで、喉の渇き切っていた私には口にしない選択肢はなかった
喉の渇きのままにグラスに手を付け思いっきりコーヒーを口に入れる
香りの強いコーヒーは少しの甘さを含んでいるようで、砂糖やミルクなしでも飲みやすかった
気が付けばあっという間に飲み干してしまっていた
今まで飲んできたコーヒーの中でも一番の美味しさで「都会のコーヒーはこんなにも美味しいのか」と感動していると、あまりにも不釣り合いな流行りの音楽が店内に鳴り響く
落ち着いた店内とは対照的にやかましく鳴り出した携帯に目をやると実家から電話が掛かってきていた
流石に店舗内で通話するわけにもいかず、カウンター前を通り店舗の扉を引いて軋む扉を開ける
入ってきた時と同じドアベルが、カランコロンと小気味良い音を立てている
それと同時に少し生暖かい風が店内へと入ってきて、店内が暑くならないよう慌てて外へと出る
心地よく寛いでいたのを邪魔された恨みをぶつけるように「なに?!」と自宅からの電話に出る
けれどその先に相手からの言葉はなく、不思議に思いながらも携帯に目を向けると通話終了の画面だけが明るく表示されていた
仕方なく履歴から電話をしようとして「何かがおかしい」と感じ手がとまる
大きな違和感はビル街の路地裏から空を見上げて確信へと変わった
そこには喫茶店に入る時には燦々と輝いていた太陽が姿を隠していたのだ
そう、あの喫茶店に入っている間に昼から夜になってしまったのだ
慌てて携帯の時計に目をやるとそこには【22:00】の表示が出ている
そっと携帯の着信履歴を見てみると家族からのメールも来ている
本来の帰宅予定時間をとっくに超えているし、帰りの電車ももう無い
とりあえずコーヒーの料金を払う為に喫茶店へと入ろうとして振り返り血の気が引いた
そこには、さっきまでコーヒーを飲んでいた喫茶店の姿はなく、赤い鳥居と神社が現れていたのだ
それはかなり立派な稲荷神社で、この地に何百年と建っている事が容易に想像がついた
月の見えない夜の闇に突如現れたそれは、この世のものとは思えずに「あり得ない」と言葉にせずにはいられなかった
さっきまで寛いでいたはずの喫茶店はどこなのか、電話を見るのに夢中で歩いてしまったのか?
そんな考えが頭の中をぐるぐると渦巻いていると再び着信が境内に鳴り響き我にかえる
慌てて電話に出てからは何を話したのかなんて覚えてないが、何とか父親に迎えに来てもらった事と帰りの車内でこっぴどく叱られた事は覚えている
果たしてあれは夏の陽炎が見せた幻なのか、それとも神様のイタズラか
考えても答えなんて出ないのに、夏になるとどうしても思い出してしまう
あの日のコーヒーの匂いと夏の夜に吹いた一陣の風、そして月の見えない夜の出来事を

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