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【エッセイ】名前を自分で決められるなら


ひとりでいる時間が長いと
名前なんて物は必要ない物の様に感じる

春になりムーミン谷を訪ねたスナフキンは
スナフキンと呼ばれる事に小さな違和感を感じなかったのだろうか…

猫に猫と言って所で、猫はきっと納得していないかもしれないし
猫界では違う呼び名が罷り通っているのかもしれない



私は一児の母なので
奥さんと呼ばれたり、お母さんと呼ばれたりする

でも、そのどれもが違和感があり
この私を奥さんだなんてと
少し笑ってしまう

奥様やお母さんの様にはきっと一生かかってもなれないと思っているから

私は何故か母親とは違う生き物の様で
結構、無理をしてお母さんになろうと頑張ってみたのだけど
この感覚はやっぱり拭えない

そんな風に考えていると自分とは
名前とはなんとも不確かな物だろうと思ってしまう

自分の名前には誰もが納得しているのかな?
違和感を感じたりしていないの?

名前を変えられるのは、明らかに不道徳な名前を親が付けた時だけなの?
苗字は自分で決められないの?

そんな事を考える
私はと言うなら自分の名前は嫌いではないし
正にこの人にこの名前ありと言った様に
自分を象徴するような名前だと思っていて
むしろ気に入っている

それでも、結婚したり
離婚したりして変わる苗字は、名前の流れを変えてしまい

なんとなくつきまとう違和感が拭えない日々を過ごすのだ
なんだかな…この部分がもっとこうなら…なんて

子供の頃、近所のケイちゃんと言う名前の子が羨ましかった

今では、日本人である以上ジョセフィーヌには一生かかってもなれないのだと知ったし

自分の名前がアリアナ・ギガンテだったとしても
どこぞの美人さんのアリアナさんとは別物だろう

私は今、akaiki×shiroimiであり
もっとakaiki×shiroimiが自分自身飲み込める様になるには大事に育てて行かなくちゃいけない
それに、いつまで経っても本名と言う枠からは抜け出せないのだ

出来るのなら、akaiki×shiroimiをもっと育てられたら
私の葬式はakaikiとshiroimiの2人の名前で締めてほしいのだけど…

名前と言う
人生で1番自分らしく
最後の最後まで付き合う存在

それなのに、自分で決める事は出来ない

そう思うと人間は生まれた時から不自由な存在なんだなと
少し悲しくも諦めの様な気持ちが自分を楽にさせたりもする

外界に決められた自分と言う存在の象徴が名前であって
ひとりになってしまえば名前なんて物はきっと必要はずないのに

自分らしさと言う物は名前よりもっとずっと感覚的な物で
奥さんと言われ笑ってしまう自分の様な何かなのかなと

名前と言う枠はなんとも少々不自由なもの

そんな枠を飛び越えた所に行けたらといつだって考える
自分が誰だって、何だって良い様なそんな場所

一つでも名前の様な重たい鎖を外して
もっと軽い存在になれたらとどうしたって思ってやまない

そんな自分に自分で名前を
今度こそ納得出来る様につけれるのなら…

そんな事を一生かかって考えるのも面白くて悪くない

ちょびっと、重たい鎖を外せる気がしてる


akaiki×shiroimi

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