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映画祭のマネジメントの研究2:世の中にはどんな種類の映画祭があるのか

映画祭の規模は様々

映画祭と一口にいっても、世界には様々な種類の映画祭があります。映画祭はまず、上映本数や予算といった規模別に分類することができます。日本の国際映画祭には上映本数が10本程度のものから600本近いものまであり、予算についても1000万円程度から10億円を超えるものまで、様々です。また、地域映画祭では上映本数が数本のものから100本近いものまであり、予算も数百万円程度から3億円程度のものまでの幅があります。

下の図で示すように、イベントの規模と影響度は一般に比例関係にあります。


映画祭の場合もイベント一般と同様に、映画祭の規模が大きくなるに従って、観客動員数やメディア露出、開催による経済的便益といった映画祭の有するインパクトが拡大することが一般的です。

映画祭の規模はさまざまであるため、一般的な映画祭のイメージをつかむことは難しいものがあります。

そのため、映画祭の規模感を具体的に把握するために、世界的にみて代表的な映画祭といえるカンヌ国際映画祭、ベルリン国際映画祭、ベネチア国際映画祭、トロント国際映画祭、そして、日本の代表的な映画祭である東京国際映画祭の概要と歴史をここで確認しておきましょう。

歴史の長いカンヌ国際映画祭、ベルリン国際映画祭、ベネチア国際映画祭の3つの映画祭が伝統的に世界三大映画祭と呼ばれてきました。ただ、近年は映画祭の規模とマーケットの重要性から、ベネチア国際映画祭の代わりに、トロント国際映画祭を加えた3つの映画祭を世界三大映画祭と呼ぶ場合が増えています。

カンヌ国際映画祭の概要と歴史

カンヌ国際映画祭は、1946年にフランス政府が開催して以来、毎年5月中旬から下旬にかけてフランス南部コート・ダジュールに位置するカンヌ市で開かれています。

併設されている国際見本市(マーケット)には数千人規模の映画製作者(プロデューサー)、バイヤー、俳優などがそろい、世界各国から集まる映画配給会社へ新作映画を売り込むプロモーションの場となっています。カンヌ国際映画祭は地元市民の参加はごく一部に限られており、映画業界が主体の催しであることが特徴です。

公式部門は、パルム・ドール(最高作品賞)を選出するコンペティションを中心に、特別招待作、コンペティション外のアン・セルタン・ルガール(ある視点)、映画学校卒業制作作品対象のコンペティションであるシネ・フォンダシオン、およびレトロステクティブで構成されています。これにフランス映画批評家連盟主催の批評家週間 、フランス映画監督協会 主催の監督週間 、映画業者のための世界最大の見本市マルシェ・ドゥ・フィルムが加わります。

カンヌ国際映画祭は1930年代後半にファシスト政府の介入を受けて次第に政治色を強めたベネチア国際映画祭に対抗するかたちで、フランス政府の援助を受け、非政治的な映画祭として1939年に構想されました。

1937年に開催されたパリ大博覧会では、出品した各国は上映施設を造り、映像による展示が競ってなされました。この映像に対する認識がカンヌ映画祭誕生の萌芽となったのです。

もともとフランスの文部省(当時の一般教養・美術省)はミュンヘン会談が終わった1938年の秋から計画を進め、映画の父といわれるルイ・リュミエールを映画祭会長にして1939年9月1日からの開催を予定していました。

開催地の有力候補には南仏の保養地カンヌ、スペイン国境に連なる保養地ビアリッツ、南西部の山あいの保養地ヴィシー、当時の植民地アルジェリアの首都アルジェの4つの町が挙げられました。さらにカンヌとビアリッツに絞られ、最終的に開催地はカンヌに決定しました。

しかし、欧州を取り巻く政治的な国際情勢は悪化しており、1939年9月1日にドイツ軍がポーランドに侵攻したことを契機として、第二次世界大戦が始まりました。そのため、映画祭開催は延期され、結局のところ第1回カンヌ国際映画祭が開催されたのは終戦後の1946年になってからです。

ようやく開催にこぎつけることができたカンヌ映画祭はルイ・リュミエールを議長に迎え、1946年9月20日から10月5日までの16日間、カジノ・ミュニシパルを会場に催されました。

1948年から1950年までは予算の関係で開催されませんでしたが、49年には会場として使用されているパレ・デ・フェスティバルが完成し、51年からは開催時期を春に変更して再開されました。

1960年にアニメーション部門を独立させ、アヌシー国際アニメーション映画祭を設立しました。1968年には五月革命が起こり、ルイ・マル、フランソワ・トリュフォー、クロード・ベリ、ジャン=ガブリエル・アルビコッコ、クロード・ルルーシュ、ロマン・ポランスキー、ジャン=リュック・ゴダールなどの映画監督の要請により、映画祭が中断されました。

カンヌ市は2週間に渡る映画祭によって、多大な経済効果を得ているため、会場はカンヌ市が無料で提供しており、カンヌ市としては他の観光事業に勝るとも劣らないほどの利益をこの映画祭によって得ています。

ベルリン国際映画祭の概要と歴史

次に、ドイツのベルリン国際映画祭の概要と経緯をまとめておきます。ベルリン国際映画祭は、ドイツのベルリンで毎年2月に開催されている国際映画祭です。

ベルリン国際映画祭にはコンペティション部門、フォーラム部門、パノラマ部門、レトルスペクティブ部門、青少年映画部門、ドイツ映画部門の6つの公式部門があり、それぞれに部門にディレクターがいて、独立した運営体制を採用しています。その他、2004年から始まったベルリナーレ・スペシャルや、ユーロピアン・フィルム・マーケットなども開催されています。

この映画祭は1951年に映画史家であるアルフレッド・バウアーをディレクターに開催されたのが起源です。第二次世界大戦前に芸術の都として栄えたベルリンの西側の拠点であり、東側の中にある当時の西ベルリンにて西側の芸術文化をアピールしたいという政治的意図があったとされます。

バウアーの引退後、1976年にヴィルフ・ドナーが第2代のディレクターに就任します。ドナーは従来夏であった映画祭の開催時期を2月に変更しました。1980年には、第3代ディレクターとしてモリッツ・デ・ハデルンが就任し、ハリウッド映画に重点をおく作品選定の方向性を打ち出しました。

1994年に発生したGATTの貿易対立により、アメリカ側が映画祭をボイコットしたため、ハリウッド重視の方針により映画祭は大きな影響を受けました。2000年にハデルンはディレクターを解任され、2002年にディーター・コスリックが第4代のディレクターとなりました。

ベネチア国際映画祭の概要と歴史

次にイタリアのベネチア国際映画祭を取り上げます。イタリアは、1900年代初期に映画の黄金期を迎えます。第2次世界大戦前はムッソリーニによる映画国策が遂行され、ローマ近郊に位置する映画撮影所「チネチッタ」や映画教育機関「映画実験センター」などといった映画関係施設に多額の投資が行われました。

ベネチア国際映画祭は、イタリアのベネチア本島の南東に位置するリド島で、夏季のバカンスシーズンの後も滞在客を呼び寄せるため、毎年8月末から9月初旬に開催されています。国際映画製作者連盟が公認するコンクール部門のある国際映画祭のなかでは世界最古のものです。

ベネチア映画祭は、1932年に第18回ビエンナーレ・ディ・ヴェネチアの映画部門としてベネチア市リド島のホテル経営者ヴォルピ・デ・ミズラータらの主導により、同市の観光対策の一環として開始されました。ローマの国際教育映画協会会長であるルチアーノ・デ・フェオが主催しました。

第2回にコンペティションが初めて設けられましたが、まだ、審査員制度は設置されていませんでした。その代わりに、専門家や観客の意見調査によって、イタリアの最優秀作品とイタリア以外の国の最優秀作品が選ばれ、各作品に「コッパ・ムッソリーニ」(ムッソリーニ杯) や国立ファシスト・エンターテインメント協会の金メダル等が授与されました。

1935年にキネマ旬報に掲載された記事では、ベネチア映画祭はMostra Internazionale d'Arte Cinematograficaを文字通りに翻訳した「国際映画美術展覧会」あるいは「ヴェニス国際映画展」と紹介されています 。この記事では、当時のイタリア映画界が低迷していたのに返して、イタリアがこのような各国映画の国際的統制に乗り出したということについて、映画国策がかしましく論じられている折からも、その今後の行動は大いに注目するに値するものであるとの評価がなされています。

また、「欧州大戦前のかつてのイタリアが世界映画界の先進国であったことを思えば、ここヴェニスを中心に映画復興の新しきルネッサンスの華がまた咲かないとは誰が断じえよう」との見解が示されています。

こうしたことから考えて、日本人の目から見ても、当時のベネチア国際映画祭は、純粋な映画の国際的な祭典ではなく、自国の映画振興やファシスト政権による文化政策、映画国策の一環としてのイベントであるということが窺えるものだったようです。

一方、この記事は「これは日本風俗の海外紹介のそれではなくて、日本映画の海外紹介、そして進出第一歩の確かによきチャンスだからである」との一文で結ばれており、映画祭は単なるコンテストではなく、映画国策の一環であるとの認識を示しながらも、国際映画祭は日本映画を海外に輸出するためのプロモーションに活用することができるのではないかとの期待が示されていました。

1936年の第4回映画祭からはコンペティション部門に審査員制度が整えられ、1938年の第6回には初の回顧上映として映画の草創期から1933年までのフランス映画が特集されました。この段階になって、ベネチア国際映画祭は新作紹介、コンペティション、古典映画の回顧上映等を含むイベントとしての形態が確立し、今日の国際映画製作者連盟が認めるような長編コンペティション映画祭の形となりました。

1930年代後半からファシスト政権の国威高揚的な色彩が強まり、第二次大戦の発生によって連合国側諸国からはボイコットされました。戦争のために参加作品数が激減し、1940年から42年にかけては「イタリア・ドイツ映画祭」の名称で開催されました。1943年から45年まで戦争で中断を余儀なくされ、見本市としては後発のカンヌ国際映画祭に追い抜かれることになったのです。映画祭自体が低迷するなか、1950年代には黒澤明や溝口健二が受賞するなど、多くの日本映画を世界にむけて紹介するきっかけになったのです。

フランスの五月革命以降における政治的混乱の余波を受け、1969年から79年まではコンクールが取りやめになったり、完全に中止されたりしましたが、再度脚光を浴びる事となったのは、1979年から1982年にカルロ・リッツァーニがディレクターに就任した期間です。この間に、現在のプログラム構成につながるプログラミングが行われました。長らくマーケット部門を持たず商業よりも芸術の映画祭として続いてきましたが、2002年にマーケットが設けられるなど、商業映画の比重を徐々に高めています 。

トロント国際映画祭

近年では、規模の大きさやマーケットの重要性から、世界三大映画祭と呼ぶ映画祭からベネチア映画祭を除外し、カナダのトロント映画祭を入れる場合が多くなっています。トロント国際映画祭は、カナダ最大の都市トロントで毎年9月に開催される1976年に創設されたコンペティションの無い国際映画祭です。

世界中の映画祭で上映された優れた作品を集めて上映する映画祭として開催されたのが起源で、ベルリン国際映画祭、カンヌ国際映画祭に次ぐ規模の来場者数を集める北米最大の映画祭となりました。ファミリー向け映画に関しては別枠が設けられており、毎年4月に「スプロケッツ青少年トロント国際映画祭」として、ファミリー映画に特化した映画祭を別途開催しています。コンペティションの無い映画祭であるため、最高賞は観客賞になります。

東京国際映画祭

日本における最も大規模な映画祭として東京国際映画祭について概観してみましょう。東京国際映画祭は1985年に開始され、毎年秋に東京で開催されています。当初は隔年開催で渋谷の映画館を中心に開催されていましたが、1991年からは毎年開催となりました 。最優秀作品賞である「東京グランプリ」を選出する「コンペティション」や、エンターテインメント性の高い話題作を集めた 「特別招待作品」、アジアの新鋭監督の作品に焦点を当てた「アジアの未来」、日本映画をクローズアップする「Japan Now」などをはじめ多くの企画が開催されています。

2003年までは渋谷地区のホールや映画館をメイン会場に開催されていましたが、2004年から2008年までは渋谷地区と六本木地区の映画館やホールが会場となりました。そして、2009年からは六本木地区がメイン会場となっています。開催時期も第1回は5月31日から6月9日でしたが、第2回目から秋の開催となりました。

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