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散った桜は汚いのか

1.


「なぜ、散った桜は汚いのだろうね」
と先日、友人が言った。
そこから私は、アスファルトに落ちて雨で濡れたびちゃびちゃの大地に敷き詰められたピンクとも言えない汚れたピンクの桜の花びらを思い浮かべた。彼が言ったのはそのような桜ではないかと思うからだ。

散った桜は汚い。
その理論、というかイメージに私は多少抵抗を覚えた。道ないしアスファルトが汚いから、必然的にそこに落ちた桜は汚いものになる。しかし、散った桜のその先が澄み切った水や瑞々しい野原である場合は、どうだろう。その桜はもっと違う美しさを発揮するはずだ。

2.

ここ数日、自分の美術作品の制作で桜の花びらを探していた。

桜の花びら、というよりも、桜の5つの花びらがついた花がそのまま落ちていることがあり、それをロウで固めて鋳造しようと思っているのである。

今朝も桜の花を集めようと、近くの公園に出かけた矢先、この散った桜は汚い、のエピソードが頭をよぎった。
それは確かにアスファルトの上で踏まれた桜の花びらは汚かったが、それでも絨毯のようにこんもりとピンクの層を作っている箇所はどこかしら美しかった。これは単純な美しさとも言えないし、なんと表現したら良いのかわからない。

写真のように、だれも足を踏み入れない桜は、いつもと違う世界を私に見せてくれた。今朝、だいぶ桜は散っており5つの花びらをもった桜の花を見つけることは、最初困難かと思われた。

ただし、よくよく目をこすってみると見つけることができた。ずいぶん歩き回ったが最初の公園の入り口にたくさん見つけることができた。

3.

大事なのはただ全体を見回して判断するのではなく、小さな形に注力してそれを拾い上げることだ。そして、その存在の徹底なる観察。
見過ごしてしまいそうな、ひとつの生きながらえた命やそのかたちをこれからどう自分が「生かすか」が問題のように思える。

最初の「切った桜は汚い」という言葉に違和感を覚えたのは、それは桜の花びらの個性を見つめない、「なんとなくただ全体性を見つめた」彼の視点だったように思う。それは、落ちた先であるアスファルトや汚い地面に同化してしまう花びら全体性を捉えた、悲劇の一面である。

これは、私の制作に関わるからきた思いなのだと改めて感じた。私はそのような全体性ではなく、個の小さな表現を大事にしたいと思うからだ。それは、私が事物の表面に施される、装飾に注目する理由につながっていく。


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