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便利さの先

今日も、私は何かにお金を払って生活している。食べるもの、飲むもの、着る物、使う物、居る場所、誰かとのコミュニケーション…。何気なく生活しているようでありながら、私たちの生活は消費に溢れている。私個人のことを言えば、生活の中で消費者であることの方が断然多い。確かに日々文章やコンテンツを作成=生産しているといえるが、どんなに頑張っても、1日3本〜5本の記事が書けるか書けないかで、クタクタに疲れ果ててしまう。文章を書いたところで、それを読んだ人に何か物を与えている訳でもないし、(もちろん、書きながら、誰かに情報や何か思考するきっかけを与えられたら、と思いながら日々文章を書いているが…。)その報酬として私がもらっているのはお金、つまり何かと交換できる価値の借りの姿のような物。時々、いったい私が何をやりとりしているのかわからなくなる時もある。

私が毎日誰にお金を払っているかわからないように、誰が私にお金を払ってくれているのか、全くわからない。そんな世界に気がついた時に、私が思ったのは、このような消費の仕方は孤独だ、ということだった。

過去の記事でも、消費のあり方については色々書いてきたが、物の交換とは元来、争いを防ぎ、かつ、それぞれが得をするようなコミュニケーションの一つだと私は考えている。

ものの価値というのは人によって、時代によって社会によって異なる。生産者がどれくらいの時間と労力をかけたか、その物自体にどれほどの有用性があるか、そのものを手に入れるのにどれほどの対価を支払える経済状態にあるのか、etc…だから、そこに本来であれば生産者と消費者のコミュニケーションが生まれていたのでは?とか、単純なことを思う。

違和感を覚えるのは、私が「本来であれば生産者と消費者のコミュニケーションが生まれていた」という過去形で考えている点だ。少なくとも、私が暮らしている社会では、生産者と消費者のコミュニケーションは作ろうとしても大変な苦労がかかるほどに難しい。なのに、私たちは消費し、どこの誰が流してくれたかわからない価値の借りの姿である貨幣を誰かに流して経済をぐるぐる回している。回せている。

私は何にお金を払っているんだろう?私にお金を払っている人は何にお金を払っているんだろう?まるで、ただそこにある値段を消費してるみたいに生きている。今の時代、死んだ後もお金を払ったりする。リアルタイムのやりとりさえ、消える。

社会や経済は、こんなに単純なわけはなくて、もっと色々な研究もあるのは承知。なのだけど、でももう少しくらい、生産者と消費者のコミュニケーションが生まれてもいいんじゃないかな?と思う。もう少しくらい、顔が見えてもいいのでは?と。全部がそうならなくても、そういう消費の仕方を選べるようになったら、きっとちょっとは人との繋がりを感じて孤独や孤立から逃れられる人がいるんじゃないかな?と、そんなことを思ったりする。

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