阪急に乗り換えようとしたらJRに乗りかけた。

好きは順接の感情、嫌いは逆接の感情。
人気者に対して嫌いって感情を抱くときだけ、自分はその人と対等になれる。時には上に立つことができる。
なんて、そんなの劣等感の醜い産物だ。今のどうしょうもない自分では逆立ちしたって敵わない彼の人に、どうにかして勝とうとした結果が、かえって弱さを露わにする。敵う必要なんてないし、敵う敵わないの話でもない。
だけど、手も足も出ない存在の人間に対して唯一言えることが好き嫌いだとしたら。「あなたは凄い。だから好き」なのか、「あなたは凄い。だけど嫌い」なのか。劣等感に苛まれまくった天邪鬼は後者を選ぶんじゃなかろうか。言い尽くされた「好き」よりも逆接という引っかかりのある「嫌い」の方が目立つから。唯一性があるから。
それに、その、たった一つ言える、好き嫌いという表明は、彼我が同じ土俵に立っているという証でもあって、その上での「好き」は追随を示すものになってしまうんじゃなかろうか。大前提として、天邪鬼の心の中では、ということだけど。
ううん、「嫌い」は同じ土俵どころの話じゃないのかもしれない。さっき言ったように「勝とう」と考えた結果なんだから。
馬鹿にするという感情に近いのかもしれない。見下す、みたいな。好きだとか何だとか、最早その次元ではなくて、そんな感情抱くまでもない。あくまで、格下。「嫌い」を突き詰めるとそこに辿り着いてしまうんじゃなかろうか。
誰か他の人を自分のステータスに利用している時点で、逆の意味で同じ土俵どころの話じゃないと思うけれども。
本当に自慢にならないことだけど、私は性格があまり社会生活に向いていないので、中学くらいの頃は周りが「敵」ばかりだった。今なら敵でも味方でもない人がたくさんいたことは理解できるけど、その当時は私のことを嫌いな人たちのことで頭がいっぱいだった。
そんな中で、私は絶対に人のことを「嫌い」と言わないようにしていた。悪口になるから面倒くさいことになる、というのも多分にあったけれど、一番大きい理由は「あいつらと対等に立ちたくない」だった。嫌いと言い切ってしまえば、私を嫌いな人たちと同列になってしまう。私や、私の友だちの悪口を言って楽しそうにしている人たちとおんなじレベルにまで下がってしまう。
この時点で頭の痛い話だけど、当時の私は本気でそう考えていた。そんな考えだから人と上手くやれなかったんだろう。
そういうわけで、ある層の人たちに対して、私は必ず「苦手」という表現を使っていた。これにどういう理屈があるのか論理的に説明するのは難しい。雰囲気で語るなら、「うち、あいつら嫌い!」と「私、あの人たちのことちょっと苦手〜」みたいな感じか。要するに、婉曲的な表現を使うことで小馬鹿にしているのである。ああもう本当に阿呆らしい。
それでいて、妄想の中で彼らに勝つときは彼らと同じ価値観でいた。彼らがぎゅうというのは、私が容姿端麗になって、顔のいい彼氏を獲得して、運動神経も頭も良くなって、全てにおいて彼らに勝つとき。書いていて恥ずかしくなるような、そんな妄想を何度も繰り広げた。
呪術廻戦のある回で、一人の女の子が「私は、私が嫌いな人たちと同じ基準で生きている」と言っていた。まさにそれだった。だけど嫌いと言うことすらしない分、私の方が下の下の下だ。
あ、そうか。嫌いと言い切ることもまた、ある意味すごいことなのか。逆張りの文脈でしか捉えてこなかったけど、自分の頭で考えて、自分の価値観や基準に則って判断したことなら尊重すべきことなんだ。
どうして私は当たり前のことを最後に書いているのだろう。こんなに鈍いから乗り換えを間違えるんだ。

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