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【短編小説】宇宙のファンタジィ/久しぶりに会った親友に宇宙装置を売られる話

集英社 第227回 短編小説新人賞(オレンジ文庫)で「もう一歩」の作品に選出された作品です。
作品の中には色々な小ネタが仕込んであります。気がつくと一層楽しめるかもしれません。
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自宅アパートから出ると、東の空に満月が浮かんでいた。綿菓子のような雲が薄く月にかかり、冷たい夜風に吹かれて、一瞬の翳りをもたらした。年が明けて、一月も中盤。この頃が一年で最も寒い気がする。今宵は風が強く、気が狂った口笛みたいな音が耳に残った。風の音を聞くと、実家の群馬県を思い出す。雷とからっ風義理人情。冬は赤城山から吹き下ろされる向かい風が暴力的で、高校時代は上り坂を自転車で駆け上がる毎日だった。風があまりに強くて立て看板が飛んでしまったり、木が倒れたりする嵐の中、風の子守唄を聴きながら私は育った。
『今日はよろしく!』
 トレンチコートの中でスマホが震えて、月乃からのメッセージを確認する。ともに風に育てられた、中学時代からの親友。親友というと、中高生の幼い純粋な響きがして、少々こそばゆい。それでいて、自分は孤独でない、理解者がいるという甘美な響きもあって嫌いじゃない。『こちらこそ』と白いウサギがお辞儀をしているスタンプを押して、簡単に返事をする。私にとって親友と呼べる友人は彼女一人。とは言っても、社会人になってから会う機会がめっきり減って、最後に会ってから三年ぶりに会うことになる。
 電車がプラットフォームに滑り込むと、座席が何席か空いており、ドアが開いて降車する人を見送りながら席を確保した。運が良い。スマホには恋人の亮介から『今日泊まって良い?』と連絡があった。『良いけど、帰り遅いよ』と打つ。すると『終電で寄るから、俺も遅い』とすぐに返事がある。ちょっと迷惑だなと感じながらも、恋人が来てくれる喜びもあって、『いいよ』とハートのスタンプを送ってみる。足元の暖房がふくらはぎを温め、冬の電車に揺られていた。自分には親友がいて、恋人がいる。それだけで世界の全てを手にしたような満足感があった。
 月乃とは、中学一年生の時に同じクラスになり、共通の趣味がきっかけで仲良くなった。四月の初めの自己紹介の際、私も月乃も「漫画を描くことが趣味です」と言ったので、磁石で引っ張られるように惹かれあった。私は一人だけ別の市から引っ越してきたこともあり、その中学では異端者扱いをされ、男子からは石を投げつけられるイジメにあった。月乃は同じ小学校からの仲間が多かったはずなのに、私を孤独にしないよう、常に側にいて私の味方をしてくれた。
 一緒にいるだけで楽しかった。同じ美術部で毎日一緒に絵を描き、お互いが描いた漫画を見せ合ったり、二人の家を行きあったり、週末は一緒に美術館やカラオケに行ったり、親愛なる彼女といることは思春期の宝だった。当時、私は両親が離婚したばかりで、母親に引き取られ、母方の祖父母の家に住んでいた。家庭崩壊で傷ついた心は、月乃との交流で少しずつ癒されて行き、彼女がいなかったら私の心は壊れてしまったのではと思う。
 月乃も両親が離婚していて、歳の離れた種違いの妹と継父と同居しており、彼女なりの悩みがあった。私たちは家庭がもたらす不幸の被害者であり、親の身勝手さを嘆き、自分達の弱さを呪い、それでも親に依存して生きていかなければならない仲間であった。明確な虐待があったわけではない。ただ私も月乃も、家庭に自分の居場所を見つけられなかった。自分なんて存在しない方が良かったんじゃないかと悩み、親と対話できない苦しみを一人で抱えていた。
 電車は新宿に近づくにつれ乗客が増え、池袋のあたりで一気に人波が押し寄せ、満員電車となる。土曜日の夕飯時、新宿方面に用がある人が多いのだろう。ダウンジャケット、ウインドブレーカー、ピーコート、全体的に寒色系の冬のアウターを着た人が多く、着膨れた人たちで一杯になった車内は暖房の熱も影響して暑苦しい。二酸化炭素濃度は明らかに高く、酸欠するかもしれない。途中駅で扉が開閉されても、まるで空気が換気されるような感触もない。空気が澱んでいる。
 新宿に到着すると、乗車客が競って扉に押し寄せた。私も立ち上がり、プラットフォームに溢れかえっている人の集団を眺めながら改札口へと繋がる階段へ向かっていく。あまりに人間が近いので寒さも感じない。すれ違う人、一人一人にその人の人生があって、皆何かしらの目的があって生きているのだろう。そう思うと、途方もない歴史が積み重なっているような気がして息苦しくなる。目に飛び込む情報量が多い。人の大波に揺られて酔ってしまい、少し気持ち悪くなる。目まぐるしくまとわり付く人の気配。待ち合わせのアルタ前の改札を出て、外の冷たい空気に触れても、目の前にの待ち合わせで集まった大量の人間に眩暈がした。月乃はどこだろう。右左に顔を動かし、探してみても見つからない。
「久しぶり!」
 後ろから声がかかり、振り返ると月乃がいた。紺のダッフルコートに赤いマフラー、ノーメイクでメガネをかけて、下は寝巻きなんじゃないかと思うほどラフな格好だった。声は元気だけれども、なんだか疲れているような様子で少し心配になった。私たちは再会を喜び合って、近くのファミレスに入って行った。

 月乃と最後に会ったのはもう三年前だ。社会人の生活にも慣れ、学生時代が懐かしくなる頃合い。ちょっとお茶しようと月乃の方から誘ってくれた。けれど月乃と疎遠になってしまったのも、その時の話が原因だった。確かあれは青山の駅近の喫茶店だった気がする。月乃から切り出された相談は、新しく付き合い始めた男性が、なにやら東大出身の研究者で癌の特効薬を開発したという話だった。製薬会社が儲からなくなるから圧力をかけられていて大々的には売れないんだけど、と話を続ける月乃に、私は思わずデリカシーに欠けた警告をしてしまったのだ。
 癌って言っても沢山種類あるけど、なんの癌に効くの? 癌によって効く薬も治療方針も全然違うんだから、全ての癌を治す薬なんて本当に難しいんだよ。本当に学会に認められた薬ならもっとニュースにもなっているはずだよ。ちょっとその彼氏、本当に東大出身なのかも怪しいんだけど。そもそも製薬会社が儲からなくなるから大々的に売れないって理屈が意味不明。薬を売るなら厚生省の認可が必要だし、癌の特効薬を開発したなら自社工場の投資金も必要なだけ集まるんだから大々的に売る流れになるでしょう。認可してない薬を知っている人だけに小規模で売るなんて犯罪だし、詐欺そのものだよ。悪いこと言わないから、その彼とは別れた方が良いよ。
 月乃のためを思って言った言葉だったが、彼女は詐欺じゃないよ、すごく良い人なんだよと頑なに主張して、彼を庇うばかりだった。私がとても酷いことを言っているようで、まるで私が彼女の顔に、その場にあったアイスティーを無遠慮にぶっかけてしまったような気まずさを残し、私たちは別れたままになっていた。
 あれから三年。次にどんな顔をして月乃に会ったら良いかわからなかった。彼氏のことをボロクソに貶してしまったから、もう嫌われてしまい、中学時代から育んだ大切な友情は消滅したものだと思っていた。だから月乃以外に親友と呼べる友人がいなかった私にとって、彼女から「また会わない?」と連絡があったのは、心に一輪の薔薇が咲くような彩りを与えたのだ。あれだけ酷いことを言っても、また会いたいと言ってくれた。それが何より嬉しかった。
「元気にしてた?」
 私たちはファミレスのソファ席に座ると、お互いの近況を報告しあった。私はドリンクバーでローズヒップティーを淹れ、月乃はホットコーヒーを淹れていた。
「前は、ごめんね」
 私は心に引っかかっていた棘を抜くように、月乃に言った。
「えー、何が?」
「いや、彼氏のこと悪く言って」
「ううん、私のこと心配してくれたのは分かってるから。普通ビックリしちゃうよね」
 月乃は首を横に振って、気にしないでと私に言う。
「あの時の彼とは今も付き合ってるの?」
 私は恐る恐る聞いてみた。月乃はその瞬間に目を瞑り、苦しそうに笑顔を作りながら「あの彼ね、死んじゃったの」と言った。
「え!」と私は息を飲みながら、「事故?」と聞き返す。
「ううん、癌」
 私は言葉を失い、頭の中でなんと声をかけて良いか考えた。癌の特効薬を開発したと豪語したのに、癌で死んでしまうとは。なんの癌だったの? と聞いても仕方がない。彼と死別するなんて、月乃の心の状態が心配になった。
「大変だったね」
「結構ね。一応私が看取った」
「そっかあ」
 適切な言葉が見つからない。
「もう過ぎたことだから。私は大丈夫」
 月乃は笑って見せた。それよりそちらの話を聞かせてと言ってコーヒーを一口飲んだ。
「何か良いニュースはないの?」と聞くので、私は少し考えて「久しぶりに彼氏ができたかな」と答える。恋人を亡くしたばかりの人に言う話じゃないかもしれない。言った瞬間に間違ったと思った。
「よかったじゃない! おめでとう!」
 月乃はとても喜んで、乾杯しようと言って、メニューからワインを頼もうと言った。おつまみにチーズとソーセージも追加で頼んだ。
「大学の時のバドミントン部の同期でね、学生の時から格好良くてタイプだったんだけど、学生の時はいつも彼女がいて隙がなかったんだよね」
「じゃあ十年近く友達だったんじゃん。よく恋人になれたね。ちょっと信じられない」
「そうなんだよ。部活のOB・OG会があって、そこで再会したんだけど、飲み会で盛り上がって、なんかお互い今恋人いないんだったら、俺ら付き合っちゃう? ってそんなノリでくっついたのよ。私としては長年の恋心が叶ったって感じ」
「良いじゃん! ずっと好きだったんだ」
「好きっていうか、淡い恋心? 青春時代に置き忘れた気持ちが突然復活みたいな」
 お酒が交じると、私たちは中学時代に戻ったかのように、好きなことを語り合えた。
「実は私も新しい彼氏が出来たばっかりなの」
 私の話を一通り聞いた後、ワインで頬を赤く染めた月乃がそう言った。
「そうだったの?」
 いつ前の彼が亡くなったかは知らないけれども、新しい彼氏が出来たから前の彼とのこと乗り越えられたのかしら。
「よかったじゃない、どんな人?」
 私は安心して彼女に言った。すると彼女はハンドバッグに手を差し入れ、ゴソゴソと何かを探している様子だった。彼女は何かを片手に掴み、コトリとテーブルの上に置いた。
 楕円状のモバイルバッテリーみたいなデザインの、金属の塊。
 銀色に輝くそれは、ミステリアスな空気を纏って鎮座していた。一体何だろうと、私はそれに注目する。
「ちょっと触ってみて」
 月乃がそう言うので、手を伸ばし、銀色の金属オブジェを触ってみる。
「どう?」
 月乃が真顔で問うてくるので、なんと答えたら良いのか逡巡しながら、「ひんやりする」とだけ答えた。
「そうでしょ? そうなのよ。ひんやりするでしょ?」
 彼女は大喜びだった。私は大地が揺るぐような不安感を抱え、彼女の次の言葉を待った。
「これはね、体のエネルギーを正常化させる装置なの。触ると体に走っている電気を整えて、宇宙から正しいエネルギーを受信して、本来の自然なエネルギーにリセットしてくれるの」
 彼女は小さく畳んだ白い紙を広げて、その素晴らしい装置の販売広告を私に見せてくれた。どうやら金属オブジェの中にはコイルが入っており、触れることで宇宙とエネルギーが一体になり、肉体も精神も正常化する素晴らしい商品とのことだった。
「三万五千円?」
 私は販売広告にある価格を思わず読み上げてしまう。
「そう、安いでしょ? 今付き合ってる彼氏が売ってるんだけど、売れるかな?」
 酔いが一気に覚めていく。バケツ一杯の氷水を頭から全身で浴びたみたいに、心の底から冷えていく心地がした。前に会った時は彼氏を全否定してしまったし、不用意にまた否定してしまったら、二度と会ってくれないかもしれない。私にとっての大切な親友。失いたくない。そう思うと、「売れるんじゃない?」と心にも思っていないことが口からこぼれていた。
「そうだよね! 彼氏も結構売れてるって言ってたし、これからどんどん売れるよね」
「ちょっと、それはわからないけど」
「ひとつ買う? 彼から直接買えば、ちょっとは安くしてくれるかもしれないよ」
「いや! そんな安くしてもらうなんて悪いよ!」
「そんな遠慮しなくたって良いよ」
「大丈夫! 私、超健康だから。超、元気。あれだよ、毎晩ヨガして地球の大地と波動を一体にして、エネルギーを初期化してるの!」
 宇宙のエネルギーと一体になることを猛烈に拒否した私は、おそらく反対の概念である地球にしがみつきたくなったのかもしれない。毎晩ヨガなんてしてないはずなのに、三万五千円の宇宙エネルギー装置を退けるためだけに、大地を愛するヨガレディが爆誕してしまった。
「ヨガで大丈夫?」
「大丈夫! 私、地球大好き!」
「宇宙の方が波動のレベル高いよ?」
「母なる大地の懐に収まっていたいです」
 時計を早めたい、話題が変わるまで、大地よ回ってくれ少しでもはやく。頼むから私を宇宙に連れて行かないで。黄金色のピラミッドが宙からおりてきて、キャトルミューテーションのごとく星々きらめく闇の中に無理やり吸い込まれてしまいそうなイメージに恐れ慄いた。意地でも地球に留まりたかった。
「何それ、ウケるー」
 月乃は笑いながらそれ以上の営業努力をやめて、銀色の丸いフォルムをした鉄屑をバッグにしまった。
 月乃、そのヤバい商材を売ってる彼氏とは別れた方が良いよ。何がヤバいって、宇宙エネルギーが何か全くわからないことだよ。宇宙のエネルギーと一体になることで、どうして健康になるの。宇宙って言葉を出せば、何か凄い的な雰囲気に騙されているんじゃないの。完全な詐欺商品だよ。もし詐欺のつもりがなくて、本気で宇宙と繋がってエネルギーが正常化されるなんて信じているなら、精神病を疑った方が良いって。荒唐無稽な妄想状態だ。ヤバい組織でも関わっている? 集団洗脳かな。月乃、彼氏とは別れて病院に通うんだ。精神科が良い。心療内科でも良い。妄想が強すぎる。現実が見えてないぞ。
 私は彼女に言いたいことを全て呑み込んで、乾いた笑顔を張り付かせながら、手元のソーセージを口に運んだ。パリッとソーセージの皮が弾け、肉汁が口の中に広がったが、味はまるで感じられなかった。グラスに残ったワインを飲み干し、再び時計の針を気にした。もう帰りたかった。

 ワインで体は温められたはずなのに、心の芯は冷え切ったままだった。銀色に輝くエネルギー体があまりに強烈な印象を私に残したせいか、その後の会話は記憶にない。私たちは久しぶりの再会を喜び、お互いの彼氏の話をして、幸せを共有し、旧交を温めたはずだったのに。帰りの電車も、駅から自宅アパートにたどり着く道も、宇宙の風に乗ってワープしてしまったかのように、気がついたら私はベッドの上で呆然と暗い天井を見つめていた。トレンチコートは羽織ったまま。エアコンも入れていないので、部屋全体は冬の冷気に満たされ、火照った私の頬から熱を徐々に奪っていた。
 梵鐘の中に閉じ込められ、外から思い切り鐘を突かれて、音の衝撃と残響に体全体が小刻みに震えているような不快感が体から抜けない。衝撃が私の胸を串刺しにしていた。鎮痛な心に癒しを求めた私は、アロマキャンドルをサイドテーブルから取り出し、ライターで火をつけた。サイドテーブルの上に蝋燭の火が灯り、私の息遣いに合わせて小さく揺れた。ラベンダーの香りが優しく私を慰めた。蝋燭の火を見つめながら、精神を落ち着かせる。
 その男、ヤバいよって言ってあげるべきだったか。
 後悔が鈍色になって胸の奥で広がる。彼氏が亡くなった。癌の特効薬を開発したのに癌で亡くなった彼。新しい彼氏が出来た。三万五千円で宇宙のエネルギーと一体になれる装置を製造して売っている、起業家で理知的な素晴らしい彼。どこまでを信じていいのだろう。でも月乃から『彼氏』を取り上げるような発言はとても残酷な気がしたのだ。
 普通の男がどういうものか定義することは難しいけれど、少なくとも私にとって月乃が愛する男たちが実在するなら、自分で作り上げた独特の世界観で月乃を魅了し、社会を遥か高みから見下して、それでいて矮小なプライドを満たそうと、チャチな商売に手を染める妖邪の類だ。月乃も妖怪になってしまったのかもしれない。中学の時、まだ世の男の手垢に汚れず、好きな漫画とアニメの話で際限なくはしゃぎあった私たちは、一体どこで変わってしまったのだろう。
 違う高校に進学し、また趣きが全く異なる大学に進学し、それぞれの人生を歩んできた。少しずつ歯車が狂っていき、気がついたらどうしようもなく合わなくなってしまったのだろうか。
 私はトレンチコートを脱ぎ、クローゼットにしまい、布団に包まる。化粧を落とす事も、歯を磨く事もできない。ただ自分の心が萎え切ってしまったようだ。
 蝋燭の火を、ふと吹き消して、喪失感を胸に抱いた。心が猛烈に冷えた心地というのは、月乃に対する友情や愛情が消失するような寂しさだったのかもしれない。それは緑豊かだったはずの森が、大火災によって見るかげもない焼け跡に変わり果ててしまった光景に似ている。もう関わらない方が良いんじゃないかと、冷静な自分が私の心に通達していた。それでも、彼女は私にとって大切な友達だった。見捨てたくない。そう言うのは傲慢だろうか。見捨てるってなんだ。私はどこかで月乃を見下しているのではないか。それは友情と言えるのか。
 もう何も言うことはできない。ガラス越しの想い、静かに見守るしかないのでは。いや、見守ることも辛い。もう手遅れだ。どうしようもない。彼女の人生は彼女のものだから、私がコントロールしようなんて烏滸がましい。親友なんて、子供時代の幻だったのかもしれない。今の彼女とは何も分かり合える気はしない。もう、心は離れ離れになってしまった。大人になるというのは、とても残酷なことだ。
 
 目を閉じてまどろむと星空が見えた。運動公園にある陸上競技場、少女だった私は防寒対策をバッチリして、親から持たされた温かいミルクティーが入った水筒を抱え、月乃を待っていた。私たちは中学生だった。白い息をはずませた月乃がやってきて、嬉しそうに手を振っていた。私たちは体を寄せ合って砂の上に座り、星屑が煌めく空を見上げ、流星を待っていた。
 世界中の誰にも見放されても、私と月乃はずっと味方でいられる。私たちには確かな友情があったはずで、まだお互いが世の中の悪意に汚れていない、綺麗だった頃の情景に涙が出そうだった。

 ドアが開く音で夢から覚めると、玄関で人の気配を感じた。人間が一人、私の部屋に侵入している。私の危機感は警報を鳴らし、寝ぼけた目を覚ますと、ベッドから腰を上げた。
 寝室の扉がひとりでに開く。ダイニングの光を背に黒い人影が入ってくる。少しの間の恐怖を制すると、そこに立っていたのは恋人の亮介だった。ああ、そういえば今日寄るって言っていたっけ。不審者かと思って強ばった両肩が弛緩し、ホッと一息つく。
「お疲れ、寒かったでしょ。これからお風呂でも入る?」
 私が亮介に言うと、彼は興奮したように喜んでこう言った。
「それがさ、今日すごく良いもの買ったんだよ」
「良いもの?」
 亮介は胸元のポケットをまさぐり、私の側に駆け寄って、とっておきの何かを取り出した。疲れていたので、それが何であるかをすぐに認識することはできなかった。手のひらに収まる程度の丸い金属体。間接照明に照らされて、銀色に輝いている。
 ……宇宙のエネルギー!
 目の前で超新星が爆発し、膨大な風圧に内臓を押し潰されたような衝撃が襲い、「ぐえっ!」と悲痛な叫びを上げてしまう。亮介は小首を傾げて、奇声を発した私の様子を案じるばかりである。
 私の心の焼け跡に悪魔が来たりて再び炎を放つ。
 三万五千円。本当に売れているのか。こいつは三万五千円を払って宇宙のエネルギーと一体化になることを信じたのか。どこで売っているのか。どうして買ったのか。本当に体を正常化してくれる装置なのか。そんなはずはない。大学時代から憧れていた愛しの恋人まで汚染されてしまったのか。私は今日、友情だけでなく恋慕の気持ちも失ってしまうのか。親友も恋人も、宇宙の風に乗って何万光年も先、決して手の届かない闇へと消えてしまったのか。これでは地獄の再審請求だ。私が何をしたというのか。こんな仕打ちってないよ。絶望の闇が私の世界を支配した。
 今にも泣きそうな顔で彼を見つめていると、彼は「どうしたの?」と能天気な微笑みを浮かべ、私の頭を撫でてくる。思わず触るんじゃねえと拒否してしまいそうだ。
「ねえ、これ触ってみて」
 と亮介が宇宙のエネルギー装置を持って私の手に握らせようとする。私の手は震え、また冷たいとか言わされるのではと恐れた。拒否することもできず、それを触ることになった。おぞましい虫を素手で掴まされるような心持ちでそれに触れると、じんわりと温かった。予想外で、
「あたたかい?」
 と私は思わず声にする。私の反応を見ると亮介は嬉しそうに、
「これ、エネループのカイロでさ、超あったかいの」
 と商品の説明を始めた。
「カイロ?」
「使い捨てじゃなくて、充電すれば何度も使えるんだよ。普通のカイロと違って熱くなりすぎなくて、すごく温かい」
 私は混乱した頭を整理しながら、
「宇宙のエネルギーじゃなくて?」
 と亮介に問う。
「宇宙?」
 それこそ宇宙の銀河に飛ばされた猫のような顔になった亮介が間抜けに呟いた。
「なにそれ」
 この男は何も知らない。
 私は涙も流れない泣き顔で、充電式カイロと同じフォルムをした宇宙のエネルギーと一体になる装置の話をした。自分で話していて、なんて頭の悪い話だと思うと一層悲しくなった。
 三万五千円で宇宙エネルギー正常化装置を中学からの親友に売られそうになった話を聞き終わると、亮介は床に転げ回って笑っていた。彼の、世の中を全て馬鹿にしたような笑い声で、私はもうどうでもよくなってきて、何もかもがファンタジーに思えてきた。
「すげえ、俺も見てみたかったわ!」
 亮介は大袈裟に喜んで勝手に盛り上がっていた。
 私は「怖かったんだから」と訴えると、彼は「大丈夫、宇宙のエネルギーが味方してくれる!」と充電式カイロを私の手に握らせ、そっと私の額にキスをした。

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