輪舞 ~ブロンド⑬完結~

 少女は顔を上げ、真っ直ぐユーグを見て言った。彼女の言葉の一つ一つが、やけにはっきりと聞こえた。
「私ね、春になったらこのお屋敷を出なくてはいけないの。」
「そう。」
「もうここで会うことはないでしょうね。」
ローズの言葉に何も返せないでいると、彼女はゆっくりと立ち上がった。
「貸してくれてありがとう。もう行くのでしょう?」
そう言ってショールを取ろうとする彼女の手を、ユーグは優しく抑えた。
「いや、いい。それは君が使ってくれ。」
そう言うと、ユーグはそっとショールで彼女を包み込み、しっかりと両手で前に重ねた。
「わたし、男の方から贈り物を貰ったのは、初めてよ。」
ローズはユーグを見つめながら呟いた。
彼女は思い出したように、小さな机に乗っている白い花瓶から一本だけ入っていた薔薇を取った。
「これ、あげるわ。」
「いいの?この花は、君が大切にしている花じゃないか。」
「ええ。素敵な贈り物のお礼よ。これが、今私が渡せる一番良いものだから。」
ユーグは一輪の薔薇の花を受け取ると、振り返ることなく庭を後にした。

 帰りにもう一度屋敷を振り返ったが、来た時と同じようにそれは建っていた。自分はもうこの屋敷に呼ばれることもなければ、この屋敷の住人たちとも言葉を交わすことはないだろう。誰にでも分かる貴族のそれは、ユーグとの間にある見えない溝を嫌でも感じさせた。
 差し出された花を持って、ユーグは帰りの馬車に乗った。一目見ただけで上質だとわかる旅行鞄よりも、胸ポケットに入れた薔薇の花を大切にしている男に、御者は「どんな良い女に貰ったんですかね」とにやにやしてからかったが、男はただ微笑むばかりで何も答えなかった。

 

 旅行から帰ってきた後というのは、どうしてこんなにも気怠い気分になるのだろうとユーグは思った。いつもはなじみのメイドに連絡を取り、自分が戻るまでに部屋の掃除や食事の準備をしてもらうのに、今回はどうしてもそういう気分になれず、慣れない荷物の片づけをしたせいか酷く疲れてしまった。
 ユーグはぼんやりと小さな花瓶に挿した蕾の薔薇を眺めている。貰った時は蕾だったが、今は少し花が開いている。花弁が幾重にも重なった華やかな花だが、純白の真っ白な色がもう会うことのない少女の姿と重なった。

 ユーグの住む夕暮れのアパルトマンのドアを叩く音がした。ドアを開けると、陽気な友人が立っている。
「やあやあ、ユーグ。久しぶりじゃないか。夏の避暑地への旅行はどうだったか。気のせいか、とても疲れた顔をしているじゃないか。」
「やあ、ピエール。とても楽しい旅行だったよ。機会があれば、またお邪魔したいものだね。まぁパリからはだいぶ遠かったけれど。」
「へえ、君がそういうなんて、よほど興味が引かれるものがあったんだね。ゆっくり話を聞きたいものだ。」
ピエールは面白そうに笑いながら言った。「君へのお土産はないよ」と言うと、大げさにがっかりした仕草をしてくれ、二人で笑った。
「いくつか面白いものがあったけれど、何から聞きたい?」
「何でも。街の様子も、景色も。一番気になるのは、君に依頼された仕事だけどね。」
「君はいつだって、私の依頼された奇妙な仕事に興味があるんだな。」
「ああ、もちろんだよ。今日だって、ディナーのお誘いを断ってきたんだぜ。」
「もし、私がまだ戻ってなかったらどうしたんだ。」
「それなら、新しい出会いがあると思ってひとりで食事に行けばいいのさ。」
そう言って明るく笑うピエールにつられて、ユーグもまた笑った。今はなぜか、この底抜けに明るい友人と一緒に話したいと思った。
「まだ帰って来たばかりで、この家にはメイドがいないんだ。長くなりそうだから、落ち着いて話せるおすすめの店を知らないか。」
「そういうことなら任せろよ。俺のおすすめの店を紹介してやる。そこはワインの種類も多いんだぜ。」
「それは楽しみだ。」
ユーグは外套を羽織ると、夕焼けに照らされた部屋を後にした。

 二人の賑やかな声が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
 机に置いてあった花瓶に挿してある薔薇の花の軸がゆっくりと朱く染まっていき、やがて、はたり、はたりと血を落とした。



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