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ひなまつりに寄せて

雨の合間の、晴れた日に慌ててお雛様を出した。

最近は色々なタイプのひな人形があって、どれもこれも可愛いし、場所を取らないコンパクトタイプのものもある。

だけど、我が家は迷う事なく、この昔ながらのタイプを選んだ。

それは、母が『ひな人形を飾る』姿や、彩り豊かなひな祭りの日の夕飯を、人形の姿とともに鮮明に記憶しているからだと思う。

晴れの日を選んで出して、
ひな人形用の埃はたきのフサフサで綺麗にして、
両隣には越後製菓のひなあられを置く。

夜、トイレに起きた時に見るのは怖いけど、
陽が差しているうちは、怖くない。

夕飯は、ちらし寿司と蛤のお吸い物。

そして、3月3日を過ぎたら、
『お嫁に行くのが遅なるで』
と言いながら、なるべく早い晴れの日に、また綺麗にして、防虫剤と一緒にしまう。

思い返すと、私はひな人形が好きでもないし、
何なら"かわいい"と思ったことも、ない。

この、ひな人形を出し、しまう、までの全ての柔らかくて暖かくて、優しい感じが好きだったんだな、と思う。

母と一緒のように、習慣で
『晴れた日に出さなあかん』
『3日が過ぎたら早よしまわな』
と言っている私に、「なんで?」と娘が訊いてきた。

"晴れた日にお嫁に行けるように"
"早よお嫁に行けるように"
と、悪気なく刷り込まれた言い伝えを、無意識にそのまま言いそうになった。

いま、これ言ったら何ハラなんだ?
早くお嫁に、って何だっけ?
結婚する、って決まってるんだっけ?
いや、ひな人形自体、深く考えたら存在意義が微妙なんじゃ…
健やかに育ちますように、と願うだけだったら結婚式の様子じゃなくて、『老齢で登山している場面の人形』でも良いんじゃ…

ひな人形を飾る側になった私は、結婚という概念を子供に押し付けずして、この結婚式場面の人形カップルを飾る理由を探している。

滑稽だし、ハラスメントかもしれないが、それでも好きな人がいれば一緒に幸せになって欲しい、と願ってしまう自分がいる。

ドラマ『不適切にもほどがある』で、昭和から令和にタイムスリップしてきた主人公が放った言葉が、最近ずっと心に残ってまして。

働き方に、"がむしゃら"と"馬車馬"以外にあんのかい?

働き方くらい、自分で決めさせろ

昭和、昭和、って昭和を悪みたいに言うけど、少なくとも今より景気は良かったぜ?

昭和の俺たちの考え(結婚や出産で「幸せだ」と叫ぶ)も多様性の一部として認めてくれよ

昭和と現代、どっちが善で悪、などといった単純な解釈ではない。

確かに、

リモートワークでも
パート
派遣
スポット
正社員
短時間
しいては主婦業

どんな職でもそれぞれがそれぞれの
『がむしゃら』と『馬車馬』で働くこと以外、確かに"ない"のだ。

景気に関しても、おっしゃる通りだと思った。

現代から見れば、タバコ休憩して残業して、効率悪っ!

と思う一面もあるが、そんな風に先人達が苦労と息抜きのミルフィーユで作ってくれた土壌があるから、私みたいな者でも、それとなく現代社会の片隅で生きてこれたんじゃないか、と。

私は昭和後半に生まれた訳ですが、アルバムで見たり、母から聞く昭和の家族や社員旅行は、とても幸せだよ、と見ているだけで伝わるものだった。

きっと、それはそれで素敵な時代だったのだ。

「多様性」ってなんだろうか。
そんなこと深く考えずに、自分の信念を持って、他人をできるだけ不用意に傷つけないで生きていれば、そんな言葉をわざわざ発する必要もないのではないか。

それと同時に、簡単に自分の言葉を世界中の不特定多数に発信できる時代に生きているからこそ、私たちは、

「自分で自分を尊重する力」
(例えば、ちょっと嫌だなと思う言葉を投げかけられても、
しれっと流したり浄化する)

も武器として身に付けていなければならないのでは?と思う。

ただ、そのいわゆる「根性」のようなものを身に付けるにはどうしたら良いか?
そこで、昭和世代は当たり前であった根性の育て方が、ほんの一部分でも必要になるかもしれない。

そう考えると、歴史がぐるりと一周していくかのような感覚に襲われる。

難しいな。
子育ての中でも、会社員時代に一緒に働いた部下のことを思い出しても、自分の中には1%も無かったような考えが、その人の大部分を構成しているな・・・と感じることがある。

例えば、
仕事ややるべきことをマンツーマンで教えている最中に、手で「待った」ジェスチャーをしながら、お茶を飲む。

いや、別にお茶を飲んではいけないという決まりはない。
でも、なんだかモヤモヤとした煙が、ちょっとした怒りに進化していく。

私だったら、教えてくれている人が話し終わるまでは必ず待ち、
その後タイミングを見計らって、茶を飲む。

この「私だったら」が厄介。
常識なの?
個性なの?
時代なの?

それは、どうにもこうにも埋まらない溝のようなものなのだ。

最近は「マルハラ」なんて言葉もあるようだけれど、こういった出来事もすべて、

”早く生まれたほうが最新ものにアップデートしていく”
”古い方が変わらなければならない”

方針でなければならないのであろうか。

「多様性」とは横軸だけではなく、縦軸でも考えなければならないな、と最近になって気づいた。

パラレルワールドになるのは、必至。

私は、昭和の文化も根性論も、レトロブームと一緒に、良いとこ取りして、上手く世渡りしていけたら、と思っている。

因みに、いわゆる『氷河期世代』と『ゆとり世代』の間を生きている私は
どうやら『プレッシャー世代』のど真ん中らしい。

これがまた、的を得ているようで面白かったので、暇な時に掘り下げて考えたい。

なにはともあれ、ひなまつりは例年通り、お祝いした。


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