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雨宮まみさんへ。後輩ライターより。

弱みを見せるということは、ある意味で舐められるということと同等なのだな、と思ったのは最近のことだ。

まあ、知ってはいたつもりだが、ここまで舐められるとなんとも言えない気分になってきた。

私は遠くの人のためにいつも文章を書いているが、私のプライベートの知り合いなども私の文章を読んでいる。

このことはとてもありがたい。

しかし、ここnoteに書いたことを、現実世界まで影響させるのはどうかと思ってきた。

noteに書いたことで、読んでいる、実際に実生活で関わりのある人に、見下されたり、色々言われたりすることに若干疲れてきたのも事実だ。

たぶん、みんな見下してなんかいない。

みんな優しいから。

そう信じたいが、それも信じがたくなってきた。

じゃあ、弱みを書くなよ、と言われるかもしれない。

でも、私は弱みを書きたい。

私は遠くに住んでいる、見ず知らずの人のために、弱みを曝け出して「自分だけじゃないんだ」とか「こんな人もいるから頑張れる」と少しでも前を向いてほしい。

私が弱みを曝け出すのは、別に近しい人に見下されたいためじゃない。

でも、実際は、見下されてばかりだ。

苦しい状況だ。

私の尊敬してやまない、大好きなライターさん、雨宮まみさんは、もうこの世界にいらっしゃらない方だが、一体どうやってこの状況を乗り越えたり、考え、答えを見つけたのだろう。

それとも、答えは見つけられなかったのかな?


尊敬している大好きなライター、雨宮まみさんに聞いてみたい。

会いたい。

会って、ライターとしての生き方を教えてほしい。

そうおもって、雨宮まみさんの半自伝的エッセイ、『女子をこじらせて』を開いた。

そこで、こんな素敵な言葉に出会うとはおもってもいなかった。引用させてもらう。

数としては同じくらいだったかもしれない悪意のこもった意見に目を向けるあまり、いつのまにか「表に出ること、何かを書くこと」=「批判の対象になること」になっていました。
何かを書いたり、自分が表に出たりすることは「戦い」のようなものだと思っていたし、傷ついたりきつい目に遭っても、それに負けてはいけないのだと、そればかり考えていました。
もちろん、表に出て何かを言ったり書いたりすれば批判もされる。悪意を向けられることもある。批判と悪意は別物ですが、私は悪意ばかりを過剰に受け取っていました。いつでも、悪口を言う人間の声はデカいものです。同じサイズのフォントで同じことが同じ場所に書いてあっても、悪口のほうが強いインパクトをも って飛び込んできます。私はそういった「悪口のインパクト」に完全に支配されていて、「黙っている人」の存在を忘れていました。

雨宮まみ. 女子をこじらせて (Japanese Edition) (p.155). Kindle 版. 


そっか。
そうだ、「黙って応援してくれている人」その人の存在だけをみたらいいのか。

そうおもった。

私の文章はこれまでもこれからもずっと、身近な人にうしろ指をさされるようなものだろう。

でも、気にしなくていいのかもしれない。

それより、遠くても応援してくれている人へ、届け、届け。
そんな気持ちで頑張って書いていこう。

雨宮さん、ありがとう。
ちゃんと私のところに届きましたよ。

私も雨宮まみさんのように、何かいいものを届けるライターになりたい。

サポートしてくださるととても嬉しいですし、喜びます!!