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映画「天気の子」 〜不調和という名の調和

音もなく柔らかな雨の降る夜。初日の最終回に滑り込んだわたしがスクリーンで見たのは、雨が降り続く日本の首都だった。

都心のビルの灯も、なんてことのない坂道も、バス停も、新宿の夜も、むせかえるように生々しく美しい。気づけば東京の街にするりとダイブしていた。東京は時々ふらっと出かけるだけなのに、思わず目をこらすほどのリアルがそこにあった。もし毎日都内に通っている人・住んでいる人が見たならどう感じるのだろう。
ほだか、という16歳の彼を見ていると、時々ぎゅうっと胸が締めつけられる。そして時々、ものすごく熱くて濃い涙がほんの数粒。
彼が時折無防備に流す涙が、そのままびゅんとわたしの目の奥にワープする。

ここからは、ストーリーそのものには一切触れない代わりに、感じたことの羅列文章になることを許してほしい。


社会での正しい行為。
社会で許されない行為。
よい人間。
わるい人。
損と得。
それはバカのすることである。

彼を見ていると、そんな鋼の服をやわらかく何枚も重ね着している自分に気づかされてしまう。この社会で人の間で安心して生きていくために身につけた服。それはきっといいことだったはずだ。
なのになぜだろう。
どうして少し泣きたい気持ちになるんだろう。

経緯は割愛するけれど、スクリーンの中で「彼(ほだか)は人生を棒に振っている」と大人が話すのを聞いた。
うむ、誰がどう見てもそうだろう、とわたしの頭はうなづき、深く同意した。
なのに首から下はどうだろう。その言葉を冷ややかにせせら笑っているではないか。
んなわけないじゃん。わかってないのはそっちだよ。そういって笑うのだ。

彼をバカな子どもだと一喝して見下すわたし。
ほだかを全力で励まし、一緒に笑い、泣き、走るわたし。
どちらのわたしも、ただ想いに体が全力でついていく男の子の姿をずっと見ていた。

プランも何もない。大義も名分もなにもない。
守りたいものを守るために、破ることを選ぶとき。
うまくいきそうだからとか、こうすればうまくいくとか考えず、体が勝手に動いて自分を投げ出すとき。人はきっとそのまま走り出すのだろう。追いかけて追いかけて、その手を遠くへ伸ばすのだろう。

迷いのない人にはかなわない。いや、かなうどころか、そんな人間が目の前にいたらこちらも自分をまるごと投げ出してしまうくらい、絶対にうまくいかせたくなるだろう。
そんな衝動のきらめきがわたしの胸をずっとぐるぐるしていた。

昔、「やりたいことがわからない人は誰かの応援をしたらいい」と言っているのを聞いたことがある。
その時は「そうか」くらいに思っていたけれどいまは違う。
全てを投げ出してでも叶えたい想いが瞬間に放たれた時、その衝動に勝手に体がついていく。そんなあり方がいいなと思う。
もし目の前にそういう人がいたなら、わたしのからだはあたまを置いてきぼりにして勝手に動くだろう。それでいいと思うだけだ。

それが映画の中でわたしの見た、一人の16歳の男の子だった。

「社会の規律、後先考えず行動するのはバカのすることだ」と頭の中で文句を言い続ける自分の声を聞き流しながら、わたしはほだかと一緒に走り、衝動に従い、手を伸ばす時間を存分に味わった。
最後に見た彼の泣き顔がいまも忘れられない。
泣くつもりはなかっただろうに、ただ不意打ちをくらったように、ボロボロをあふれだす大粒の涙。決してそれはあたまではなく、からだの表現だった。
それは、わたしが男の人の涙を美しいと思う時の顔そのものだった。

◇◆

たいてい映画を見る前の期待やワクワク感には、多かれ少なかれスカッとしたい・爽快な気分を味わいたいという成分が含まれていると思う。


でもこの作品が、そういう類の欲求を満たせるかどうかの保証はわたしにはわからない。
でも、自分が人にとって不都合な自然現象をどう意味づける人間なのか。自分のあり方・考え方・感じていることに気づける映画だということは保証する。

それを1年単位でみるのか、10年単位でみるのか、100年単位か。
はては自分と大事な人の範囲でみるのか、街単位なのか、国単位なのか、世界単位なのか、地球という星単位でみるのか。銀河系の中のひとつの星としてみるのか。
どこからみるかで「良き・悪しき」の判断基準はまるで変わるということにも気づく。

自然環境のめぐりの理(ことわり)を思うとき、人は空と大地の間にただ存る生き物だったとあらためてハッとしたことがあった。

活火山のあるハワイ島は、突然ドクドクと溶岩が流れ出す島で、それはこれまでの歴史で幾度となく繰り返されてきたことでもある。
ある時、ひとつの集落を飲み込んだニュースを見ていた。人々は早めに避難していのちを守り、その代わりに家をまるごと失っていた。
海に流れ落ちる溶岩の河をを見ていた地元の男性が「これは神さまのすること。だからしょうがないんだ」とインタビューで言っていたときの顔が忘れられない。
深い悲しみとあきらめ、起こっていることを明らかに見て逆らわず、受け入れて生きている人の目だった。怒りも嘆きよりも、おおきな畏敬の念をたたえている人の目。

夜の街はつねに明るく、部屋は冬に暖かく夏は涼しい。
失われたら不便で困るけれど、それが本当に悪しきことなのかはわたしにはわからない。
人類の都合と生物全体の都合は違う。ビルの3階からみると不調和に見えても、150階から見渡すと、それは調和だったりする。
結局は調和も不調和もないのかもしれない。
ただ起こるだけで、本当はすでに全ては調和しているのかもしれない。
あるいは、いつだって世界は狂っているのだろう。

終盤に向けて、ただ淡々と、起こったことの全てが水のようにどこまでもどこまでもわたしのからだをひたひたにしていった。良きも悪るきもなく、全てが大河のように流れて、静けさとが世界を包むのをみた。

この映画で受け取った希望は、どれだけ想定外のことがあったとしても、人は柔軟に変化して、それでも笑顔で生活を営むことができるということ。

たとえもう取り返しがつかない、人生台無しだと思った瞬間があったとしても、必ず全ては過ぎ去り、新しい今日が毎日訪れるということ。いつだって人間の想いという重力が、未来と世界を変える原動力なのだと教えてくれる新海監督の作品を、わたしはこれからもずっと見続けると思う。


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