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うまく書けない、という呪いを解く方法

一気に涼しくなった。9月1日(土) の京都は、過ごしやすく気持ちのよい秋の1日になるだろう。その日わたしは、京都・烏丸の廃校になった中学校にいる。美しい建築物で有名な建物だ。ここで作家・小野美由紀さんと、からだの専門家・青剣さんの「クリエイティブライティング講座」に参加するために。

この3月まで小野美由紀さんという作家がいたことを知らなかった。自分のnoteのアカウントもまだなかった。それでも偶然に流れてきた告知をみて3秒で「いく」と決めた自分を今でも誇りに思う。関西から金沢はとても近いのも後で知ったことだ。

この講座で、ぐるりと人生が変わってしまった。

あのとき参加していなかったら、こうしてnoteで文章を綴ることは一生なかっただろう。

批判しない・できなくていい・好き、やりたいを大切に

普通に考えて「作家=教えるのがうまい」という保証はない。そう思うと小野さんとの出会いは、本当に奇跡のようだと思う。なんといっても、書き出す前に「批判しない・できなくていい・好き、やりたいと大切に」という彼女のイントロダクションに、場の雰囲気がホッとゆるんだことを一番に思い出す。「批判は人を育てない」という彼女の信条は、どんな場所でもキラキラと安全な空間を生みだす。

この安堵感の中でハッと気づいたことがあった。それまでひとりぼっちの孤独な世界で「うまく書けない自分をウルトラ批判しまくり、結果書くのをやめさせる」という呪いを自分でかけていたこと。

同時に自分が他者から「批判されない」という空間に私は今いるんだ!」という強い確信。「ああ、ここは内側も外側も安全だ」と、心から初めて思えた。

さぁ、後はでてくるままに綴ればいい。

そして綴れなくてもかまわない。

人の綴ったものをみて「おお!」と刺激をたくさん受けるのに徹してもいい。

責めなくていいし、比べなくていいのだ。

わたし、本当はこうしたかったんだ。

そんな自由な自分になれたのは、書く前にからだの専門家・青剣氏のリードが大きい。わたしたちは全員で遊ぶようにからだを動かし、たくさん笑い、話をした。

誰もにとってこの時間は他者とふれあう、目を合わせる、笑うことの偉大さを改めて知る体験になるだろう。青剣さんはきがるねというなんとも不思議で面白い場をつくっている魅力的なフォアシリテーターだ。からだ部というメディアの運営者でもある。ダンスのみならず言葉の造詣も深い、佇まいの美しい男性。人と作品に対する質実なあり方は、この講座の間中、ずっとわたしの手元を照らしていたように思う。

頭とからだ。まるごとで書くとペンが止まらなくなる

書き出す前に、自分以外の存在に気づく。自分のからだに気づく。その中で自分の中で湧き上がるたくさんの感情に気づく。

だからその後に座って真っ白な紙とペンを目の前にしたとき、あそこまで広大なスペースが自分の中に広がるのだろう。

書き出してほどなく「そうか、頭で書くのではないのか!」と体感的にわかった瞬間があった。そう、文章は頭、指、目、からだまるごとで書いている。そうわかると不思議なことにどんどん書ける。指に、胸についていくように書いていいんだと実感の連続が始まる。

うまいとか下手とか判断するのは頭の仕事だ。でもからだが書くことそのものを楽しむのがわかったのもこの時だ。からだは生き生きと踊って楽しい!としか叫ばないことも。それが許される時間と空間。それが、この「クリエイティブライティング講座」の醍醐味と可能性だ。そう気づいたのは、帰ってきてからのことだった。

自分への呪いが解けた日の話はこちら。


書けないときのブレイクスルーの方法はたくさんある

この講座では、小野美由紀さんは文章を書く時の具体的なノウハウを絶妙に入れてくれている。書くことに煮詰まったときや、自分が何を書きたいかわからなくなった時に、自分の中から引っ張り出すさまざまな方法を教えてもらった。もちろん教えるだけでなく、その場で実践する。だから日常に帰ってきてからもずっと使えるようになってしまう。

特に潜在意識からテーマを見つけるワークは、わたしにドンピシャでハマった。このおかげで書くことをあきらめなくなったのは、わたしの人生を大きく変えた。そして書くほどに「自分が本当は何を書きたいか」というコアの全貌が視界に映るようになったのも本当だ。

参加者は10代もいれば50代60代もいる。本名をいう必要もない。ただ、お互いに笑い、書いたものを読みあい、感想を交換し、誰かの才能に感嘆する。そんな1日を過ごすだけだ。それがどれくらい幸福な時間か、到底語り尽くすことはできない。少なくともわたしにとってはそれは幸福の塊でしかなかった。

彼女のブログでこんな文章をみつけた。

先日開催した「5感で書くクリエイティブライティング講座」の中で、自分の辛かった思い出や、しんどい気持ちを現実の出来事として描くのはあまりに苦しくて書けません、と言った受講者の方がいた。その方は最終的に、その感情を自分のものではない別の誰かの物語として描きなおすことで、短い時間の中でとても素晴らしい短編小説を書き上げた。直視することも、分解することも、解明することも、「わかってよ」と叩きつける必要もない、ただ、光のあたらない暗闇の中で、そっと何か、描けるものを描けばいいのだ。自分でも見ることのできない何かを、その筆致が、暗闇の中、盲目のままに描いた曲線が、誰かの心を動かす作品に仕上がることはきっとある。書き手は自分の書いたものの正体を掴むことはない。けど、それでいい。

今回の講座ももんのすごく熱く、全員が書きたいもの、書けるものを秘めていて、かつ技術もあり、参加者同士の学び合いで場が成立しているような感じ。私が教えることは何もないな、と思わされるような場だった。この講座をやっていると、時々「もんのすんげえの」が出てくることがあり(受講者の方や作品のことです)、その「すんげえの」を見たくて開催している気がする。自分が文章を書くのも好きだが、それと同じくらいかそれ以上に「書き手」という存在が好きで、目の前で「書き手」が生まれる瞬間を見たくてこれをやっている。やり終わった後は必ず2日間寝込むし、コスト的には本当にとんとんなんだけど・・・でもありがたいことにキャンセル待ちが5名も出て、1月の開催も決まった。早く次をやりたい。楽しい。
何も考えずに書くことの重要性みたいなこと、説いてる私がいつもそれができなくなりがちなので、講座をやりながら、受講生を鏡に自分がリハビリをしている気持ち。

「教わっている」という幻想はもういらないのかもしれない。ただ、思うがままに、自分まるごとで生きたいから参加するほうが正解なのかもしれない。ここまで書いていてなんだけれど、ここに再び参加できることが、ますます楽しみでしょうがない。高まってしょうがない。

というわけで9月1日(土)、古都・京都でお会いしましょう

京都はゲストハウスも多い町。遠方からであれば泊まって、翌日は京都を楽しんで帰るのもおすすめです。

いま、noteでこうして繋がっている人は、どんな表現方法であれ、「自分であること」に真摯な人ばかり。そんなの見たらすぐにわかる。みんなアーティストだ。だから文章やイラスト・表現をいつだってワクワクと楽しめるし、わたしも自分の言葉を綴ることを愛してやまない一人としてここにいる。

だから、もっと自由にわたしたちは書けるし書いていい。それは誰かを笑顔にしたり癒したりするものだと、本当にわかっちゃっていいと思う。少なくとも、わたしは自分一人で駄文だと嘆き悲しむのをやめることができた。だから揺れながらも書き続けられているのだと思う。

愛あるプロのサポートと仲間の存在は偉大だ。

週末の秋の京都で、もし会えたなら嬉しい。気軽に声をかけてください。参加の詳細はここから。

■前回の京都講座レポート 身体を使って書くクリエイティブライティング講座vol,9

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