見出し画像

【小さき戦士のものがたり】

この世のすべての〝小さき人〟へ捧ぐ。

       ◇ ◆ ◇

その人はわたしを「小さき人」と呼んだ。
真夜中に裸足で駆け込んだ時も、犬小屋で寝たいと言い張った時も、その人は
「理由を言いなさい」
「だめに決まっているでしょう」とは絶対に言わない人だった。

家から徒歩3分の場所で一人暮らしをしていた森崎さんは同じ道沿いの住人だった。
わたしの家から全力で走ると90秒で着くその平屋の塀の前には、襲いかかってくるかと思うほど不気味に巨大化したアロエの鉢がたくさん並んでいた。
そのせいで近所の子どもたちからは「おばけの家」と呼ばれて恐れられていた。

産後うつと診断された母の元ですくすくと育ったわたしは、4歳になっても保育所にいくことはなく、寝込みがちな母と静かに暮らしていた。
決して裕福ではなかったけれど卵雑炊を半分ずつ味わったり、いろんな折り紙を二人でつくって遊んだり、その日々は穏やかだった。
しかし父が気まぐれに帰ってきた日だけはまるでお茶の間のTVドラマのようにわかりやすい地獄絵図になった。彼は月に1、2回ほど夜中に乱入してきては酒を飲んで母に殴る蹴るを繰り返す。いつも突然私たちの目の前に現れては、ひとたび火がつくとその暴力は止まらなかった。

「逃げて!」と叫ぶ母の声を合図に、固まっていたわたしは弾かれたように外へ飛び出す。無我夢中で玄関を出て右にまっすぐゆくと、気持ちの悪い大きなアロエでいっぱいの森崎さんの家が見えてくる。わたしはいつもそのアロエを目指して全速力で走った。

森崎さん家の玄関の明かりはいつも弱々しく、でも消えていたことは一度もない。夜中の2時でも明け方の5時でもバンバンバンと玄関のひき戸を叩くと、その戸は音もなくスルスルと開いた。そして寝巻き姿の森崎さんは笑うわけでもなく何か言うわけでもなく、血まみれの足の裏のままで立ち尽くすわたしをそっと抱き上げた。
わたしは毎回規則正しく森崎さんの首につかまってワンワン泣きながら、そのまま眠りに落ちた。森崎さんは無言でわたしの足の裏を丁寧に拭いて手当てをした後、あたたかな自分の布団の間にそっと滑り込ませてくれるのだった。

そうして翌日に母が迎えにくるまで二人でテレビを見たり、ご飯を食べながら過ごすのが通例だった。いろんな話をしたような気もするし、何も話さなかったような気もする。たいてい私たちは静かで穏やかに微笑みあっていた。でも台所で洗い物をする森崎さんの小さな後ろ姿を見ていると、とてつもなく大きな静寂のカゴの中で静かに体を震わせている小さな鳥のように見える瞬間があった。
森崎さんの背負っている大きな檻のような何かと、わたしの喉にまでひたひたにあふれていた悲しみと怒り。それは途方もないほどの巨大な静けさをもっていて、安全に独立していて決して交わることはなかった。それでも一緒にいるとほのかに温かみを放ちあう不思議な関係がそこにあった。

そのうち母が夜に働きにポツポツ出るようになってからは、自然に森崎さんの家で過ごすことが多くなった。
「なんでわたしはこんな目にあわなくちゃいけないんだろう」「なんで産んじゃったんだろう」とめどない母の独り言が始まる夜、わたしは何も言わずにそっと外に出る。
玄関においてあった懐中電灯を手にゆっくりと森崎さんの家に向かう。それは走らずともよい、恵まれた日の証だった。

森崎さんはもしかすると70歳を超えていたかもしれない。少しだけ腰が曲がっていた。黒目がちなまあるい瞳と目尻に刻まれたシワの深さが、そのまま彼女の生きてきた時間をわたしに教えてくれていた。
シワのひとつひとつをじぃっと見ていると、その視線に気づいた森崎さんはニコッと笑う。そして「たい焼き食べる?」と聞いてくる。またはあんこの入ったおまんじゅうを必ず用意していた。その問いにいつもわたしは無言でうなずいた。
何も言わずにじっと顔を見ていることを、お腹が空いたというサインにしているのはいつも森崎さんの方だった。わたしはそれをとても気に入っていた。

もうひとつ忘れられないのはぺぺの犬小屋だ。
ペペロンチーノが好物だったというマルチーズのぺぺ。亡くなってしばらくたっていたが、小さな庭には犬小屋がまだ残っていた。そこで眠るのがこの世でもっともわたしは好きだった。
かなり風化していたぺぺの犬小屋を見つけて入った夜のことは今でもありありと思い出せる。

はげかけた朱色の屋根をもつ小さな木のお家。四つん這いになってそうっと入り、そのまま膝を追って横になると小さな窓から青白い月が見えた。
お日様と枯れ草のまじったような、けものの匂い。顔を照らす、青白い月の光。これほど静かで美しく、心休まる空間がこの世にあったことに、小さなわたしは心底驚き、歓喜した。
その夜そのまま眠ってしまったわたしは、森崎さんをかなり慌てさせたらしい。
犬小屋から出ていた赤い靴を見てわたしのありかを悟った森崎さんは、起こすわけでもなく引きずり出すわけでもなく、そのままにしてくれた。
翌日亡きぺぺの毛にまみれて起き出すと、森崎さんに手をひかれながらそのままお風呂場へ直行し、大笑いながら服のまま朝日の中でシャワーを浴びた。

数日後、再び森崎さんの家でダラダラしていたわたしは我慢できずにそうっとペペの犬小屋に潜り込んだ。
すると小屋の中には塵ひとつないほど清潔な空間に変わっていた。そして森崎さんの手編みのかぎ針パッチワークカバーに覆われた座布団が一枚。大きくてふわふわの真っ青なクッションがひとつ配置されていた。それだけで小さな小屋はもういっぱいで、わたしの残りの空間にぎゅうぎゅうと自分の体を押し込んだ。膝を折り曲げて顔を上げると、小さな窓の向こうに庭の琵琶の木の葉が風に揺れていた。さらにその向こうに薄いブルーの空がうっすらと広がっていた。
その日からペペの小屋はわたしだけの空間になった。

母との暮らしではわがまま一つ言わないわたしが、森崎さんといる時にはまるで別人のように怒ったり泣いたりすることを、あの時の森崎さんは気づいていたのだろうか。

わたしは夜になるとぺぺの小屋で眠りたいと必ず宣言をした。森崎さんは目線を合わすことなく「ええよ」と編み物をしながら返事をする。それが不服なわたしは何も言わずに後ろからそうっと近寄り、ゴロンと横になって森崎さんの顔を下から覗き込む。
森崎さんはチラッチラッとわたしの目を見ながらもおかまいなく編み物を続ける。そうしてしばらくすると、そうっと編み物をこたつの上に置く。
そして言うのだ。
「そんなに覗き込んでもなぁんにもないよ。わたしは本当のことしか言っていないよ」
この言葉に納得をしたわたしはすいっと起き上がり、いそいそと庭の小屋へ向かうのだった。

ある夜のことだった。ひどく癇癪を起こしていたわたしはいつもの宣言の時間におおいに荒れ狂った。
お決まりの言葉を聞いても、何ひとつ心に響かなかった。
「違う!違う!絶対に違う!」
床につっぶし、体まるごとで暴れて叫び続けた。
わたしはごうごうと泣きながら、この世に存在する全てのヒステリーを命をかけて表現すると決めた邪悪な嵐の子どもに成り下がった。
その様子を森崎さんはなんにも言わずにただじっと見ていた。
目を閉じて暴れながらもわたしはずっと彼女の気配を感じていた。森崎さんは0.1111秒もわたしから気をそらすことなくそこにいるのがわかった。
そして彼女は静かにこう言った。

「あなたはなぁんにも悪くない。そしてそんなに弱くもない。みんなはあなたを子どもだと言うかもしれない。でもね、それは本当は違うんよ。あなたはね、”小さき人”なの。子どもという名前ではないのだよ」

その揺るがない声のありかに、わたしは思わず顔を上げた。すると森崎さんはそれまで見たことのない笑顔でこちらをじいっと見ていた。
「あなたは立派な”小さき人”なのよ。だから大丈夫なんよ。大丈夫大丈夫」
そう言って背中をポンポンと何度もやさしく叩き始めた。
その瞬間、あふれる涙でわたしは何も見えなくなった。
気づけば上も下もなくなり、時間もない世界に放り込まれた。お腹からキラキラした塊が生まれて目を閉じた視界を一気に照らし出した。そのままわたしは声を出さずに、森崎さんの膝の上で眠るまで泣き続けたのだった。

あの日からわたしの中で何かが変わった。
その夜以来宣言をすることなくぺぺの小屋でのびのびと眠るようになったし、発作的に繰り返していた癇癪の気配がスッと消え去った。そして膝の悪い森崎さんのお使いをしたり、洗い物を手伝ったり、そういったふるまいを楽しむ子どもになっていった。
そして幼いながらも母といる時にどれだけ緊張していたかも体で理解した。それはすぐにどうなるものではなかったけれど、それでもわたしの心は緩やかに平安を保つことができ、それは小さな体で過ごす日々の大きな助けになった。
自分の家と森崎さんの家を往復しながら紡いだその生活は、わたしが児童擁護施設に預けられるまで続いた。その日はちょうど半年後、母の引越しとともにやってきた。

森崎さんの家に母と挨拶にいった朝は、暑い夏のまっさかりでわたしはとても不機嫌だった。母は小さな声で何かを話し、ペコペコと頭と下げていた。わたしは汗ばんだ手を母に捕まれ、眉根にシワを寄せたまま森崎さんをぼんやりと見上げていた。
森崎さんは笑うこともなく、悲しそうでもなかった。ただやさしく母の肩に手をおき、何かを淡々と話している。
そうしてひとしきり大人同士の挨拶が終わった後、森崎さんはゆっくりと時間をかけて膝を折り、わたしの顔を正面から見つめて言った。
「じゃあね。また会いましょう。元気でいるのよ」
それは父と母から逃げて逃げて夜中に玄関を叩き続けたあの夜、何度も見た森崎さんの顔だった。
この時ようやく「この人は絶対に嘘をつかない人だ」とわたしは悟った。

なんにも信用できない、信頼できなかった世界に初めて「信じていい」と思えた存在。
ああ、わたしはこの人を試していたのか。
試して試して試しつくして、わたしは手に入れたんだ。この存在を。
この世界に信じていいものがある、という事実を。
その時のわたしはそのことを全く言葉にはできなかったけれど、頭に一瞬放たれたその光が幼いわたしを閃光のように照らした。

涙はでなかった。
ただ、森崎さんの目をいつものようにじっと覗き込んでいただけだった。
森崎さんはそらすことなく、気の済むまで覗き込ませてくれた。完全に。どこまでも。限りなく。永遠に。
ああ、これでやっと生きていける。生きていいんだ、これからも。
この時、初めてそう思えた。
それは5歳の夏だった。

それから施設と母の家、親戚をめぐりながら育つうちに、いつのまにか記憶もあいまいになっていった。正直にいうと10代の記憶はほとんどない。思い出そうとすると全ては霧の中で全く実感が伴わないまま今もいる。
きっとたくさん笑ったり、楽しかったこともあったろうと思うことはあるけれど、それでも小さな体とわたしの心は最善の選択をしてくれたことをわたしはありがたく誇りに思っている。

ここに来るまで、こういう自分を責めたり、周りのせいにしたことはたくさんあった。それでも今は、あの時のわたしが許容量を超える悲しみや怒りに自分がつぶされないように、そうっと薄いベールの向こうでよく見えないように働いてくれていることを今ではよく理解しているつもりだ。
そのことを思うとき、わたしよ、わたしの大切な部分を守ってくれてありがとうと静かに思う。
そんな防御の砦が機能したのは、おそらく森崎さんの家で過ごした時間が静かに助けてくれたのだと思う。

あの固いたい焼きの甘さ。かぎ針のカラフルなパッチワークの数々。ぺぺの小屋で眠った夜。けものと太陽の匂い。そして真っ黒でつぶらな森崎さんの瞳。
その全てがいまのわたしをかろうじてここまで生き延びさせているのが今ではありありとわかる。

あの夏以来、森崎さんと顔を合わせることは一度もなかった。
おそらくもうこの世にはもういないだろう。
そしてそれがなんだというのだろう。
関係あるのか、この気持ちに。
わたしはまったく悲しくない。そう、最後のあの日もそうだった。
なぜならあの日以来、わたしは森崎さんと離れたことは一度もないのだから。

わたしを「小さき人」と名付けた彼女の瞳。
あの日のぺぺの小屋はいつでもこの体の中に、胸に、お腹に生き生きと息づいている。
あの家の庭の青い月の下で。
真っ青な空の下で琵琶の木のそばで。
わたしはいまも誇り高く「小さき人」とともに今日を生きている。

〜Fin


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?