ひなどりの記憶。
朝、7時30分。
真っ黒なスーツを着た役人の背中は、今日も心地よく温かかった。
そして、今日も幼女の手には緑色のパッケージが握られている。
牛乳が飲めなかったその幼い女の子は、代わりにβカロテンたっぷりの人参ジュースを飲んでいた。
彼女が降り立った先にいたのは、当番制の若い女性スタッフだった。
彼女は背広の方を向いて「行ってらっしゃい」と声をかけた。
彼女の隣に座っていた少し小さなお姉さんは、
「今日も納豆の匂いがするわ」とぼやいた。
その時、幼女たちは未来で彼女の同僚になるお姉さんのことを知る由もなく、お父さんとの時間が長くはないことも知らなかった。
幼女はスタッフに話しかけた。
「昨日ね、パパとママが喧嘩してね…」と。思い出せる限りの出来事を。
そう話す幼女を、若い先生は笑って聞いてくれた。
「あはははは、いつ聴いても家庭は大変ね。」
それは幼女にとって、彼女の大好きな先生だった。
そして夜。
5時、6時になると、たくさんの友達はそれぞれのパパとママに連れられて帰っていった。
「ねえ、ママ!今日の晩ご飯は何?」
「今日はね、リュウ君が大好きなハンバーグよ!」
「わぁい!僕、ハンバーグだいすき!」
そんな普通の親子の会話が、幼女にとってはたくさんあったかどうかはわからない。
6時半。
アディショナルタイムに突入した幼女は、いつも最後まで残るポケモン好きの男の子と一緒に別の部屋でおやつを食べていた。
そこで聞くお話。
「ポッチャマって進化するとポッタイシになって、ついでに鋼タイプにもなるんだよ!」
「へえ!!」
卒園する頃には、そんな話で盛り上がることがよくあった。
7時半。欠伸を抑えて何とか帰りたがっているスタッフは、「もう帰りたい」という言葉を私たちよりもぐっと奥に押し込んでいるだろう。
その中で、片道2時間の帰り道を乗り越え、疲れ果てている姿を見せていた女性が、やっと門を開けた。
「ママだ!」
幼女は、今までで一番元気な声を上げた。
その時、ポケモン好きの男の子も、もういなかった。
「先生、また明日沢山話そうね!」
幼女の声が、忙しい若手のスタッフの疲れを少しでも和らげたのかもしれない。
今思えば、そうであってほしいと思う。
「ねえママ、あのね!今日もみんなでプリキュアごっこしてね!男の子たちはブンビーさんとウザイナーになったの!」
日本一有名な某病院で暴れ回っている患者を目の前に、
今日も天使の役を演じた女性にとっては、
ブンビーさんと一緒に遊ぶことも朝飯前だったのかもしれない。
私の幼い頃の平日はほとんどこんな感じだった。
常にたくさんの大人たちが、笑顔を作ってお世話を交代しているのに、
幼女は気づかず、毎回、起こった出来事を教えてあげたいと思っていた。
それが私の『おしゃべり』の本質を形作ったのかもしれない。
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