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波多野秀尚の辞世 戦国百人一首77

名前から想像できる通り、波多野秀尚(はたのひでなお)(生年未詳 – 1579)は、『戦国百人一首77』(一つ前の記事)で紹介した、丹波国八上城主の波多野秀治の弟である。
この弟も兄と共に織田信長によって磔となって処刑された武将だ。

77 波多野秀尚

 おほけなき空の恵みも尽きしかど いかで忘れん仇し人をば  

(空からの恵みが尽きるとしても仇敵のことは忘れんぞ!信長あああ)

秀尚が殺された経緯は、兄の秀治と同じであるから話が重複する部分もあるが、この2人の無念を考え、両人とも辞世をしっかり残していることを考えてあえて百人一首の中の一首として加えた次第である。

織田信長の命を受けて丹波攻撃をした明智光秀は、彼を裏切って八上城で籠城した波多野秀治らを追い詰めたあと、彼らの助命を保証して降伏・開城を勧めた。
その時、波多野氏はその光秀の話を疑った。
降伏すれば領地としての丹波国と家の存続を保証するというのは本当か?
信憑性を疑う波多野氏に対して、明智光秀はその保証として彼の実母を波多野氏側に人質として差し出したのである。

そこで波多野秀治・秀尚兄弟は降伏し、彼らの身柄は安土城へと送られた。
ところが、織田信長は、一度は味方についたはずの波多野兄弟の裏切りを許すことができず、「(裏切りが)侍の本分を分かっていない」として、2人を安土の浄巌院・慈恩寺で磔にしてしまったのだった。

その行為に怒り狂ったのは八上城の残党たちだ。すぐさま、人質として預かっていた明智光秀の母親を磔にして殺した、という話が残っている。

同時に明智光秀も信長の所業に信じられない思いをしただろう。
彼の面目丸つぶれの上、実母を殺されるという大変な痛手を負った。
彼は信長を深く恨み、この事件が本能寺の変で光秀が信長を襲った動機の一つに繋がったという。

実は。

現在は、光秀が母親を人質には送っていないとするのが通説になっており、上記の話は伝説、作り話である可能性が高い。
だが、この話は非常に有名なので紹介しておいた。

とはいえ、波多野兄弟の怒りが消えるものではない。
兄弟の辞世は、どちらも騙されて磔にされる者の無念さが現れており、信長への怨みが込められた歌だが、弟である秀尚の辞世のほうが、兄・秀治のものよりもう少し「仇し人=信長」への怨みの気持ちが直接的に表わされているようである。