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薬師寺元一の辞世 戦国百人一首⑭

28歳だった薬師寺元一(1477-1504)は、自分で腹を一文字に掻き切って果てた。その時に彼が遺した辞世は、物議をかもしたものだった。
今回はあえてその辞世の解釈に合わせて2バージョンを両方画像にしてみた。

薬師寺元一 2つ新

地獄には よき我が主(わか衆)のあるやとて 今日おもひたつ 旅衣かな
あの世にはよい主が(よい若衆が)いるそうだから、今日思い切って旅にでてみよう 

薬師寺元一は、若かったが摂津国の守護大名・細川政元の側近であり、守護代であった。

その彼が細川政元へ届けとばかりに詠んだのが上記の辞世の歌である。

元一の主・細川政元はかなりの実力者であった。
幕府の24,26,27,28代の管領職を勤めた。
将軍・足利義材を追放して足利義澄を第11代将軍に擁立し、自分自身が実権を握り「半将軍」とも呼ばれた。
だが、山岳信仰にはまり、何度も修行や旅に出ると言っては都を脱出しようとしたり、妖術を使ったなど数々の奇行に走ったことでも知られるクセのある人物だった。
今川氏真、大内義隆と並んで「戦国三大愚人」の一人に数えられているほどだ。

そんな主君に使えたのが薬師寺元一だったのである。
若くして摂津守護代に任じられるなど政元に取り立てられ、出世を重ねた元一は、「元」の字を主君から与えられて名乗ったほど彼に気に入られていた。
1500年、元一は政元の命令で河内の畠山義英を助け、畠山尚順を破る武功も挙げている。

ところが、1504年細川政元が突然元一を守護代から解任ようとした。
将軍・足利義澄がこの人事に介入したので、元一はなんとか突然のクビは免れることができた。
元一は、謝礼として義澄に馬や太刀などを将軍に贈ったという。
しかし、政元に対する怨みは残ったのだろう。

元一が切腹するハメになったのは、そのあと政元に対して挙兵したのが失敗したからである。
1504年、元一は赤沢朝経と共に政元を排除して、澄元を将軍に擁立しようと摂津で挙兵した。
しかし、彼の弟の長忠らに抑えられ、居城・淀城は落城してしまった。
そして元一は、政元の指示で京都に送られ、自害させられたのだ。

もともと「一の字」が好きだった元一は、「薬師寺与一元一」と名乗っていた。
自害したのは、彼は自分が建立した一元寺だった。
「我は一文字好みにて名も与一、名乗りも元一、この寺も一元寺と名付けたり。されば腹をも一文字に切るべし」
と言って切腹したという。

さて、肝心の辞世だが、歌は「我が主」と「若衆」の掛詞となっているのがミソである。
「我が主」と詠むならば、「地獄にいる私の主の元へと旅立つ」という潔い歌となる。
「若衆」と詠めば、「地獄にもいい若衆がいるから、先に旅立って下見しておいてやるよ(お前のために)」というような政元を地獄へ誘う不吉な歌となる。

細川政元と薬師寺元一はもともと男色関係にあったのではないかとも言われている。だからこそ若い元一の出世もスムーズだったのではないかと勘ぐる。
そしてかつてはそんな間柄だった2人だからこそ、元一は
「男色家のお前のことだから、地獄へやってくるのが楽しみだろう?」
と言っているのだ。

元一は家臣に辞世を伝えさせる際、「若衆と聞こえるよう発音しろ」と指示したという。