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「聴く力」は「たのしいは最強」への道

はじめに

こんにちは。江畑です。
私は数年前にアカツキを辞め、株式会社ジザイラボという「たのしいは最強」を共に探求するラボの代表をしながら、外からアカツキの皆を応援する日々を過ごしています。

今年のテーマは「聴く力」
日頃、ありがたいことにアカツキ内外で多くの人とお話をさせてもらっている私が、1on1やコーチング・対話時に心がけていること、そんな世界だったらいいなと思っていることを書きたいと思います。
1on1をやっているが業務連絡になりがち、自分ばかり喋ってしまう、しっくりこない、何を話したら良いかわからないという方に、少しでも参考になり、また「たのしいは最強」を共に探求する人になってもらえたら嬉しく思います。

「聴く力」ってなんだ


茫漠とした自己と幽体離脱

幽体離脱の実験

みなさんは思い出せる一番古い記憶は何でしょうか。
私はだいたい同時期であろう記憶がいくつかあり

  • 家のドアノブに手が届かない

  • 階段が登れるけど降りれない(隙間があるタイプの階段で怖い)

  • 庭の石が横向きのなんかの生き物の顔に思えて怖い

なので3、4歳程度だと推測しているのですが、その中の記憶の一つに

  • 自分が自分であるという意識が手放せないまま生きていくことに途方もなさを感じて、ちょっと意識が体から離れる感覚

があります。ちょっと解説するので追体験して欲しいのですが

  1. どこかしらの床などで一人で転がります。目を閉じ、静かに呼吸をし、色々最近あったことなどを思い出しめぐらします。

  2. 途中で、自分はこの顔、この体、この意識であることを生きている間はやめられないことに思い当たります。

  3. 生きている間ということは、少なく見積もってもあと数十年は逃れらない計算です。

  4. え?長すぎない?やばくない?ってなる

  5. 幽体離脱

いかがでしょうか。無事、幽体離脱できましたか?
繰り返しますが「庭の石が何かしらの生き物に思える」くらいまだ自意識がはっきりしていない茫漠とした幼児です。お読みになってる方の年齢は分かりませんが、「自分は自分」と思って数十年生きてきたキャリアがあるかと思いますので無理なさらず。もし幽体離脱できたよ。私も子供の頃同じこと考えていたよ。という方、ご連絡ください。

そうして、その頃から私はちょっと自分自身から意識が少しだけはみ出た状態で大人になりました。

はみ出た自意識

聴いてる時の私は空っぽである

「聴く力」がテーマなのに、何の話を読まされているのかとお思いですね。
それは、この「ちょっと自分から意識がはみ出た状態」が、私の「聴く」のひとつのスタンスに繋がってくるからです。

私は、1on1の中で色々な会話をします。時には業務の相談であったり、生き方やあり方の話など、本当にただの雑談などなど、話題は様々です。しかし、どんな内容の話題であれ、私自身その会話の中で、どんな話をして、何を言ったか言われたか、など会話の内容にはそんなに重きを置いていません。集中していることと言えば、自分自身は「空っぽ」であろうとすることです。

1on1に現れる3人目

もちろん生きてきた経験や記憶、あれやこれやの失敗や成功体験、ちょっとカッコつけたいなど人並みにありますので、完全に「空っぽ」になることはできません。しかし自分自身が「空っぽ」であろうとすると、対話している相手とその話、そしてそれを聞いた自分自身が今までの経験から思い浮かぶこと。その両方を上から眺めることができるのです。
思い浮かんだことを率直にそのまま伝える時もありますし、ただその風景を見渡し続ける時もあります。そうしていると、すべての風景が、そうなんだという「驚き」を伴った新鮮なものに見えてくるのです。
その感覚が得られたら「空っぽ」作戦は成功です。

その後の自分の状態は、プールから出た後の次の授業時間のようなボワっとした感じにちょっと似ています。自然体でありたいものですが、多分それなりに集中力を使っているのだと思います。

「聴く力」とは「いるね!」力

「聴く力」がテーマなのに、何故人様の1on1中に幽体離脱をしてしまう話を読まされているのかと思いですね。
それは、私が「聴く」の最大で唯一の効能は「いるね!」だと思っているからです。

先ほど、そうなんだという「驚き」に至れば成功と書きましたが、「驚き」の良いところは「良い」「悪い」などのジャッジ性が低いところです。そしてそれは「存在の発見」のメッセージなのです。
あなたという存在が、何が出来るとかどんな価値があるとか失敗したとかは知らん!ただそこに存在しているのを私は常に発見し続けていますよ!=「いるね!」なのです。

私が1on1で何をしているかというと、ずーっと「いるね!」「いるね!」ってやっているのです。なお、伝わっているかは定かではありませんが、だいぶ時間が経ってから、何かの足しになった話を聞ければ「よかったね」と思います。またそして「そうなんだ」と感じます。

いるね!

唯識の思想

最近、仏教の歴史の本を読み漁ったりなどしているのですが、その中で横山紘一さんの『唯識の思想』を読みました。

唯識とは、大乗仏教の「空」の思想から着想を得て発展した「唯だ識、すなわち心だけしか存在しない。 自分の周りに展開するさまざまな現象は、すべて心から生じたものである」という考え方です。
本書の中で私が幼い頃に感じていた「自分はこの顔、この体、この意識であることを生きている間はやめられないことへの絶望感」のに通じる話が書いてありました。

「自分」というのは言葉が、あるいは言葉の響きがあるだけなのです。その響きに惑わされて存在しない自分をあたかも存在するが如くに思い、しかも全ての行動の主体、主人公として捉え、「自分が、私が、俺が…」と言い張るのです。
-中略-
私たちはそれらすべてを「自分の心」と考えていますが、手の場合と同様、自分の言葉に対応するものを発見できません。
「存在するのは唯だ身体、唯だ心だけであるというのに、それを自分である、あるいは自分のものと誤認している」という、この事実の認識から仏教理解が始まると言っても過言でありません。

横山 紘一『唯識の思想』 (講談社学術文庫)

まず、自分の身体と心なんていうものはないのだ。という話をしていますね。もう少しわかりやすく言うと、その身体や心は自分のものである証明などできない。という話です。
更に外側の世界に言及されます。

この思想を学ぶにあたり、まず理解すべきは「一人一宇宙(ひとりひとうちゅう)」という事実です。ふつう私たちは、一つの共通の空間、広くは宇宙の中に住んでいると思っています。
-中略-
世界には具体的世界と抽象的世界とがあります。前者は一人ひとりが自ら作り出した世界であり、後者は言葉で語られ、しかも人間同士が「ある」と認め合った、いわば抽象的世界です。そして私たちは、この具体的世界から抜け出ることはできません。

横山 紘一『唯識の思想』 (講談社学術文庫)

私たちは、他者と同じ世界に住んでるのではなく、自分一人しかいない宇宙に個別に住んでいて、その空間は決して共有されないとのことでした。
あそうそう。これこれ。ってなりました。と同時に、その私自身の宇宙が「すべて自らの心から生じたものである」ならば、特に逃れる必要はないのでは?とも思えました。

他者とはなにか

それでは、自分とは違う宇宙に住んでいる他者とは一体何でしょうか。宇宙が異なり、決して交わることのない存在であり、「唯だ識、すなわち心だけしか存在しない。 自分の周りに展開するさまざまな現象は、すべて心から生じたものである」のであれば、自分が認識している他者とは、自分の心が作り出したものです。自分の空想の産物であれば究極貶したりしても良いのでしょうか。それは違います。ちょっとややこしいですが、自分が認識している他者とは、自分の心が作り出したものであって、決してその人自身は見えていないし、理解できないと言うことだと、私は理解しています。(この辺になってくると、もはや理屈ばかりではなく修行しろの世界になってくるので、この話はこのあたりで勘弁してください)

他者とは、自分の心が作り出した他者と、決して見ることのできない実在のその人自身であり、自分自身と同様に主体であり客体ではない。そしてそれを知った瞬間に、自分自身と同様に客体として眺めることができると言うものなのです。

一人一宇宙
アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ『星の王子さま』より

「たのしいは最強」だ

最後に、なぜ「聴く力」が「いるね!」を伝え続けることになるのか、「いるね!」を伝え続けることが何になるのかを説明します。

結論から言えば「いるね!」を伝え続けることが「たのしいは最強」になるからです。

私たちは自分自身の「価値」や「特別さ」を証明するために躍起になって時間や労力を使うことがあります。どんな人間関係もそうですが、業務や仕事になるとことさらではではないでしょうか。なぜでしょうか。それを証明して、いったい何を得ようとしているのでしょうか。私はそれもこれもすべて「そこにいていいよ」の為だと思っています。つまり、そもそも最初から「そこにいていいよ」が前提であれば、諸々の証明に人生を費やす必要はないのです。

「そこにいていいよ」の証明に説明責任が伴わなければ、他のことに命を使うことができます。それは、自分が心から「たのしい」と感じることです。「価値」を証明しなくていいので、人の役の立とうとか、評価を得ようと無理をする必要はありません。自らが得意で夢中になることに集中できますし、それがその人にとって「最強」の状態だと私は考えています。(「最強」というと結局価値の優劣がありそうに聞こえますね。ちょっと説明が難しいのですが、価値のパラダイムを含めた俯瞰した世界から見ても「最強」と言う意味で使っています。)

また、私にとって「聴く」行為は、その後の対象者の活躍への期待を前提としていません。その人自身の中にあるものが、その時になれば勝手に芽吹き出すと思っているからです。その「芽吹き」は「聴く」とは因果関係にないのです。因の種子はその人の中にあります。
それも含めて「いるね!」なのです。

いるよ!

この記事は、『アカツキグループ人事アドベントカレンダー』 の 11日目の記事です。 前回は藤元さん のアカツキゲームスQAで見つけた私らしさの発動条件でした。

アカツキグループ人事アドベントカレンダー【 クリスマス限定 】12月1日〜12月25日にかけて、毎日更新、アカツキグループでヒト・組織にまつわる業務に従事する人事たちが、リレー形式で投稿します。記事を読んでアカツキが気になった方は、ぜひこちらのHPへ遊びにきてください。▶︎ https://aktsk.jp/recruit/