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ごちゃごちゃ

前にこんな記事を書いていました。

底意地の悪い社会

いじめなのか、排除なのか、考えすぎなのか、構えすぎなのか……
いったい何がどうしてこうなったのか、わからないけど、すごく不快。
そういったことが積もり積もると、誰も知らないところで自分の心が疲弊していくのです。

上の記事で書いた中学生はその後、その件を引きずらずに卒業し元気に過ごしています。
その後がハッピーなら問題は無いし、やった方もやられた方も忘れてしまうでしょう。
けれど同じようなことがあった時、途端に過去のことが思い出されて、自分に原因があったのでは?と悩んでしまうかもしれません。
つまりやられた方は、確実に心の傷となって残っているのです。

私も、「これは意図的なのか?無意識なのか?」とわからないようなことで傷つきました。
その状況というのは、

それぞれ自分のやるべきことがある。
たまたまその時に別の用があって後回しになっていたことがある。
同じように後回しにしていた人が数人いて、他の人の分はそれ以外の人が気遣ってやっていてくれた。
しかし私の分だけが、放置されたまま残っていた。

別に大したことではないのです。
すぐにやれば済むことだし、実際何事もなく済ませることができました。
けれどあからさまに自分の分だけが放置されていた時の屈辱感は言い表せません。
みんなそれぞれやることがあったので、目についた残った分を『善意』で処理した。
それだけのことなので、敢えて私の分を放置したわけではない。
ただ、目の前にあって気づかないはずがないものを、私の分だけが残っているというのは、私という存在に気が回らなかったということでもあります。
こういう出来事をどう捉えれば良いのかわからないのですが、確実に自分の中ではガッカリしているわけです。

底意地の悪い社会というのは、こういう些細なところから広がっていくのでしょう。
それならば最初から他人の善意など期待せず、自分のやるべきことに集中すれば良い。
そう割り切ると、心の中がとても冷たく凍てついてしまうような気がします。

そう、人と人とのつながりというのは、物事を淀みなく処理すれば良いというものではないのです。
誰にでもできることを手伝ってもらった。そのことは、物事を無事に処理できたことが大切なのではなく、私という存在を認めて気遣ってもらえたという実感が大切なのです。
物事が処理できればいいのでしょ?と言う人は、排除したい人に対して敢えて気遣わず、気遣う人との差をつけて排除する。
そのことが私の労力を減らすわけではないけど、存在を排除された、否定されたという不快感は確実に残るわけです。
しかし物事は滞りなく済んでいるために、「別に大丈夫だったでしょ?何が文句あるの?」となるわけです。

『底意地の悪い社会』
で話題にした中学生も、無事に卒業できて、「何事もなかったでしょ?」「いじめた側も反省したことだし、問題ないでしょ?」と事が収まったようにみられるかもしれませんが、本人の中でどのくらいの傷になっているかは、誰も知ることは出来ない。
表面だけ見て、軽々しく判断するべきではありません。

なんとなく鬱陶しいと感じる人を、イジメや排除とは証明できない方法で、気分的に排除する。
気遣いをしない。存在を無視する。

こうしたことで、弱い人は「いったい何でこんなにも不快なんだろう?自分の考え方が卑屈なのではないだろうか?」と考えてしまいがち。
そうやって、相手に非があるにも関わらず、頭の中がごちゃごちゃになってしまうのです。

いや、どんなに些細なことでも、自分が不快ならそれは間違っている。
直接対峙できなくても、身を守る必要があるのです。
私も、そんな風に排除された集団からはキッパリと身を引こうと思います。

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